図鑑の絵から表現活動そのものを考える
今更ですが。私の立ち位置が判りにくいと思われる方多いと思うのだけど、『生物学(古生物学)の中で、正確に観察対象をスケッチする』という方法を学んだ事もあって、敢えて見たままに描かない理由は何処にあったのだろう、と。結論.. http://togetter.com/li/113641
2011-03-20 15:47:32@gervillaria わかりますよ!内面(主体)重視か客体重視かは芸術家によっても異なりますし、昆虫などのサイエンティフィックイラストレーションなんて私も大好きですからね。うますぎる!って。
2011-03-20 15:50:48@tashirotakahiro ありがとうございます! 昆虫だと精密な写真を撮ろうとしても被写界深度の問題でかならず何処かがピンぼけしちゃうので写真じゃなくてスケッチが大事!って事みたいですが……凄いですよね。昔の論文のプロが描いた図版も戦慄モノです。それこそ貝とかでも。
2011-03-20 15:53:11@gervillaria 貝はやばいですね!数学的にすっごい美しいですし、英国の芸術評論家H・リードなどはアンモナイトの対数らせん構造(厳密には違いますよね)にプラトン的な美を見出していました。
2011-03-20 15:56:18@tashirotakahiro 厳密には違いますけど、二枚貝も巻貝もアンモナイトと同じく“ほぼ”対数らせんですね! アンモナイトについては以前のまとめに論文紹介してます〜>http://bit.ly/gTCA1T
2011-03-20 16:02:58@tashirotakahiro もいっちょ、こっちは正常巻きアンモナイトのパタンです〜>http://bit.ly/h6sKlb
2011-03-20 16:04:47@gervillaria ありがとうございます!で、おそらくリードが20世紀前半に指摘していたものは自己組織化だったのではないかと。これは複雑系の誕生よりもかなり早い時点での気付きでした。第二次世界大戦中だったので。
2011-03-20 16:08:23@tashirotakahiro 相変わらず話題がお広い……! 自己組織化はもう少し突っ込めば『シルエットを変えない成長の利点』に至ったでしょうね。仰る通り、今の数量形態学やフラクタルにも通じます。
2011-03-20 16:16:15また近代の芸術家の内界への関心は哲学史、科学史と大きくかかわっていますよね。ダリなんて当時は新しかった深層心理学にかぶれている感じがしますし、やはりカント以降は多かれ少なかれ私たちの観念そのものにパラダイムシフトが起きたのではないか。
2011-03-20 16:06:32あと古典的絵画、写真、CGなどに優劣関係はないと思います。優劣関係がもし仮につくとしたら作家の精神性なのではないでしょうか?描く過程を省いている(?)写真家にだって作家性はある。この光の世界を恣意的に切り取っているわけですし。
2011-03-20 16:01:58@tashirotakahiro 絵画、写真、CGに優劣は無い、というのは全く同感です! 作家の精神性も、此処のクリエーターの優劣の枠内でしょうし。私がそこに順序をつけるとしたら、要不要という視点ですね。情報の取捨選択においてそれぞれに向く場面がある訳ですから。
2011-03-20 16:12:51カントの話ですが、よく美大の先生とかが「対象を深く見つめる力を」とかいいますが、明らかに学術的知識がないとどうやっても気付けないことってあるw。なにしろ私たちはあまりにこの世界のものの見方に無知だから。それに気付けば芸術は科学だってバカにできない。
2011-03-20 16:15:14モノそのものによって世界は変わらないけど、“モノの見方”は世界を変えてしまう。構造主義、進化論、量子力学・・・人がそれに気付く前も自然界は特に変わっていなかった。でも人間のセカイは変わっちゃった・・・
2011-03-20 16:18:22@tashirotakahiro 逆もまた然りですね! 芸術と科学もまた文化の一側面でしかない事を痛感します。(少なくともルネサンス以降に於いて)様々なアプローチを通して、実際にある世界と個人が持つ世界のイメージが近づいて行く一つのストリームがあるように思います。
2011-03-20 16:18:33@gervillaria おおっ!明らかにあります。これはもう生物進化の相似形だと思っています。定向進化ではないけど方向性はある。>実際にある世界と個人が持つ世界のイメージが近づいて行く一つのストリーム
2011-03-20 16:21:13伝えたい物があって、それを最も確実に伝えるには、より厳密にセッティングしつつも余計な情報が無い方が良い、という視点です。『リンゴが欲しい』というか、『君の目の前のテーブルのカゴにあるリンゴのより赤い方のそれが欲しい』と言うか、ですねw @tashirotakahiro
2011-03-20 16:22:26@gervillaria 面白いのはなにかを伝える時、言葉足らずでもいけないし、情報過多でもいけない。しかしその均衡点が個人によって差があることですよね。でもロジックを深化させるならば相対的に後者かと。前者は日本人的ですよね。欠けた情報を自分の創造力で補完している。
2011-03-20 16:29:44@tashirotakahiro ある程度上下に枠があって、閾値がありますよね。それを越えると下らない、であったり、意味がわからない、であったり。ただ、そこのブレに人は感銘を受けるのかな、とも。
2011-03-20 16:31:29@gervillaria その意見は芸術やっている人はよく言うんですけど、そこ(ブレ)は私はあえて考えないんですよ。送り手の逃げだと。ブレはあくまでも読み手のものであり、作り手が意識するものじゃないんじゃないかって思うんですよ。
2011-03-20 16:33:48誤字訂正)@tashirotakahiro ですね。あくまで受け手の中にあるものです。で、作り手が作るのは上下に誤差範囲の指定された折れ線グラフの中の一点なので、その一点を定める所は作家性だし、逃げちゃいけないとこだと思います。
2011-03-20 17:42:42@tashirotakahiro はい、それだけでなく、過去の作品を見る上でも、科学の話をする上でも重要なポイントなんだと思います。案外全ての情報伝達に通じる物ではないかな、と。
2011-03-20 16:47:05@gervillaria 芸術と科学の類似点から、表現そのものの全体まで話が及びそうですね・・・私ってよく「話の規模がいつの間にか広くなってるよ!」ってあきれらちゃうんですけどねw
2011-03-20 16:48:56