『神話が考える』と『意味の論理学』をめぐって~福嶋亮大氏、千葉雅也氏、東浩紀氏ほか
静的生成とセリー化された潜在性を扱うキャロル/フッサールに対し、動的生成とセリー化されない潜在性を扱うアルトー/フロイト 郵便本209p RT @hazuma N次創作はそりゃキャロル的世界だろうけど、アルトーはいるのかよ!って @masayachiba は突っ込んでいる
2010-04-01 04:10:43@hazuma そうなんですよ。僕としては、N次創作が生みだす世界の解離は、キャロル的なゲームフィールドの限界を超えて、身体の別のあり方、それが住まう別の可能世界を幻視させるファンタジーを生みだすと考えます。
2010-04-01 04:04:14ぶっちゃけて言えば、キャロル的なナンセンスっていうのは、否定神学の構造なんです。これは浅田さんも東さんも指摘していたことです。キャロルは、ポストモダンとモダンの間に位置している。
2010-04-01 04:06:00ぼくはキャロルでもそれは行けるのではないかとも思うが... RT @masayachiba (..) 僕としては、N次創作が生みだす世界の解離は、キャロル的なゲームフィールドの限界を超えて、身体の別のあり方、それが住まう別の可能世界を幻視させるファンタジーを生みだすと考えます。
2010-04-01 04:06:19ドゥルーズの「意味の論理学」において、キャロル部分=否定神学、アルトー部分=否定神学システムそのものの生成という整理が可能なのはいいとして、ぼくとしてはむしろ、キャロル部分に郵便的思考の可能性が隠されていると論じたかったりするのだけどね。
2010-04-01 04:08:12アリスは身体と生成についての小説だからな。しかしまあ、これはぼくの好みの問題(ふたたびロリ問題に!w)かもしれない。
2010-04-01 04:09:15@hazuma ここがドゥルーズ読解の微妙なところなんです。『意味の論理学』では、キャロルとアルトーが区別されましたが、『アンチオイディプス』になると、かつて表層/深層と分けられたレベルが、一元的に癒着して、「キャロル=アルトー」になってしまうんですよ。
2010-04-01 04:08:58これは重要だよね。RT @masayachiba ここがドゥルーズ読解の微妙なところなんです。『意味の論理学』では、キャルとアルトーが区別されましたが、『アンチオイディプス』になると、かつて表層/深層と分けられたレベルが、一元的に癒着して、「キャロル=アルトー」になってしまうんで
2010-04-01 04:10:15『意味の論理学』はただでさえ不安定な構成の本ですが、『アンチ・オイディプス』では、まさしくキャロル的ゲームに内在しつつ、ゲームそれ自体の生成が(身体論的なレベルまでも捲き込んで)問われるということにになり、キャロルとアルトーが峻別できなくなる。
2010-04-01 04:12:02少なくとも福嶋さんのキャロル分析の中では「コモンセンス」と「ノンセンス」との相互関係を強調しているわけで、構造主義的な否定神学を採用しているようにも感じられる。わりに「ユルい」否定性かもしれませんが。
2010-04-01 04:16:14そう思います。RT @kosukeikeda 少なくとも福嶋さんのキャロル分析の中では「コモンセンス」と「ノンセンス」との相互関係を強調しているわけで、構造主義的な否定神学を採用しているようにも感じられる。わりに「ユルい」否定性かもしれませんが。
2010-04-01 04:29:00あえて粘着的に、正確な言い方を欲するなら、郵便的思考があるのは、アルトー的分裂とキャロル的倒錯の狭間であると思います。
2010-04-01 04:13:55いずれにしてもですね、福嶋さんは、キャロル的なゲームをほとんど手放しで肯定することで、否定神学批判というタスクなど担わなくてよい、という立場を採っているように思われます。否定神学批判のモチベーションそれ自体の無効化。
2010-04-01 04:14:44なるほどすぎる! RT @masayachiba ...福嶋さんは、キャロル的なゲームをほとんど手放しで肯定することで、否定神学批判というタスクなど担わなくてよい、という立場を採っているように思われます。否定神学批判のモチベーションそれ自体の無効化。
2010-04-01 04:19:20でもともかく「神話が考える」の完成度はおそるべきもの......しかも同世代の人が書いてるんだからなあ...
2010-04-01 04:34:03あちゃー。これは強烈な批判だな。RT @masayachiba いずれにしてもですね、福嶋さんは、キャロル的なゲームをほとんど手放しで肯定することで、否定神学批判というタスクなど担わなくてよい、という立場を採っているように思われます。否定神学批判のモチベーションそれ自体の無効化
2010-04-01 04:15:40しかし浅田さんにしても東さんにしても、いったんは否定神学ないしクラインの壺批判をしてから、複数的な超越論性の議論へと向かったわけでしょう。このいったんの批判の経由なしで、いきなり、現今の社会システムにおける多様性の肯定へと向かってしまうのは、どうなのか。
2010-04-01 04:16:06クラインの壺構造が「ゆるく」作動したまま、その上で多様体が繁茂しているかのようであればそれでいいではないか、という開き直りではないか……。これは、飛躍して言いますが、直感的に言って、ひじょうに「日本的」な「神学」なのではないかと思います。
2010-04-01 04:18:24しかしあの徹底してマニュアル化された『動物化するポストモダン』が当時の批評読者に与えた失望に較べれば、はるかに『神話が考える』は洗練されてはいないだろうか……!
2010-04-01 04:16:33@hazuma ひじょうに洗練されていると思います。論は明晰ですし、かつよくよく考えると出てくる曖昧さがまた、うまいバランスになっていて。結局、ネットワーク社会というか、ローティ的リベラル社会におけるオートポイエーシス的な大衆文化生産を信じつつ、それだけでOkとも言っていない。
2010-04-01 04:21:16僕はかつて、理性中心主義の隘路を「否定神学」と呼んだことがある。それにならって、ここで、計算中心主義の新たな隘路を「創発神学」とでも名づけておくことにしよう 文学環境論集765p
2010-04-01 04:26:16@hazuma 郵便本3章の最後、「哲学者は受け取った手紙を読まない」というのは、一般意思2.0に直接繋がる箇所だと思いました。手紙の中身ではなく、その形や重さが重要だった、というソルジェニーツィン追悼文にも。
2010-04-01 04:41:48