畠山直哉展「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」と「作者が自分の作品について語ること」の意味
そんならブログで書けよという話なのだが、ブログで書く文章に組み立て直すのは結構大変なのだ(←日本語力さらに低下中;)(←というか、そもそも俺のブログは英作文の練習用;;)
2011-10-31 21:04:35畠山直哉展の感想、ケッキョクここに投稿することにしました。全部で26ツイートあります。一気に投稿するため一時的にTLを占拠することになるかもしれませんが、失礼しますm(_ _)m
2011-11-02 05:25:35RT @edtion1: http://t.co/yu50yGU5 “制作意図を 他人に説明するのは、美術家としてやっていくなら、非常に重要だ。プロジェクト を立ち上げたり、グラントに応募するときにかかせない、という実際的な側面 もあるが、何よりも 自分で自分の作品を説明できなくてどうするのよ!”
2011-11-02 05:25:51RT @nakashima001: そこで再び思い出してしまったのが、先日の「作品を説明できなくてどうすんのよ!」と宣うブログのこと。僕にいわせれば、自作品を説明できる/に責任もてる アーティストなどというのは《ひとりよがり》レベルのアーティストなのだ。則ち、いまだ《自己表現》を超えていないアーティストのことだ。
2011-11-02 05:26:001)作品と言葉の関係についてはずっと関心があって、とくに「作者が自分の作品について語ること」に関してはいろいろと思うことがある。それはものすごくセンシティブな問題だと思うのだが、概して粗雑に扱われがちな議題でもある。
2011-11-02 05:26:442)「自分で自分の作品を説明できなくてどうするのよ!」という主張への違和感は、「アート」や「美術」という言葉の野放図な使われ方にも原因しているように思われる。確かに「説明できること」が前提となる作品も存在する。しかしそれは全ての作品ではない。
2011-11-02 05:27:003)「全ての」作者が自分の作品の制作意図を説明できて当然とする考え方は、「アート」を彼らが正嫡と考える一つの文脈へと統一しようとする働きなのだろう。ある意味それは異端審問なのである。しかし当然それは「正嫡/傍流」の概念の外側では通用しない
2011-11-02 05:27:154)もう一点、作者が自分の作品の制作意図を説明できる/できない理由は多様だが、作者に作品の制作意図の説明を強要する理由は一様である。つまりは見る側の「時間の節約」なのだ。
2011-11-02 05:27:255)コンペに制作意図の提出を求められるのは、審査時間の節約以上の意味はない。無限に時間があるならば、一点一点時間をかけて作品を見れば済む話だからだ。グラントやプロジェクトの説明も同様である。
2011-11-02 05:27:356)だから作者に制作意図の説明を求める者は、審査員であり、クライアントであり、地元住民であり、総じて言えば作品と自発的な関わりを持たない者たちである。「全ての作品に必要な制作意図の説明」とはつまりはそうした者たちに向けるべきものなのであり、作品の受け手に向けたものではない。
2011-11-02 05:27:447)しかし「作者が自分の作品について語ること」はそうした処世的な「説明」のレベルに留まるだけのものではもちろんない。ときにはそれは「作品」の内部にまで入り込む。そして、ときとしてそれは当の「作品」によって裏切られる。
2011-11-02 05:27:548)そもそも「作品」にとって「作者」はどのような意味を持つのか? 作者の「制作意図」が作品に対して持つ意味とはなにか? そんなことを考えさせられたのは東京都写真美術館で開催されている畠山直哉の個展「ナチュラル・ストーリーズ」を見たからだ(以上前フリ。ここから本題)。
2011-11-02 05:28:039)今回の畠山の個展会場では、制作意図はおろかタイトルを示すキャプションすらもなく、すべての「言葉」が展示室から放逐されていた。もちろんそのことは畠山が「自分で自分の作品を説明できない」ことを意味しない。むしろ畠山は言葉に長けた写真家だと思う。
2011-11-02 05:28:1310)プロジェクトを遂行するためには制作意図の説明は不可欠であろうし、さらに作品に肉薄したレベルにおいても畠山の言葉は考え抜かれたものであるように感じる。展示に「説明」を付けないこともその一環だろう。しかし展覧会の外側で我々は彼が「制作意図」を語った言葉に触れることができる。
2011-11-02 05:28:2211)アサヒカメラの「写真家と震災」特集に寄せた畠山のテキスト≪「いい写真」とはなんだろう?≫は、震災後に「芸術家(あるいは表現者)」として発せられた言葉としてはもっとも(あるいは唯一)身に沁み、腑に落ちる言葉だった。今月号の芸術新潮のインタビューも興味深く読んだ。
2011-11-02 05:28:3412)今回の個展の最大の焦点は津波を被害を受けた陸前高田の震災直後の写真が出品されていることだろう。畠山自身陸前高田の出身であり、今回の津波災害によって母親を亡くしている。上に挙げたテキストやインタビューは、それらのことを踏まえた上のものなのである。
2011-11-02 05:28:4413)おそらく畠山はそれを撮ることに対しても、撮ったことに対しても、見せることに対しても、あるいはそれらを言葉にすることに対しても深い内省を重ねてきたのだろう。そのことは彼の言葉からひしひしと伝わってくる。そしてその彼の思いに、その「制作意図」に深く首肯する。
2011-11-02 05:28:5214)ところが今回展示を見ての最大の驚きは、当の写真が畠山の言葉をマッタク裏切っていたということなのだ。畠山の言葉から想像していたものと、実際の写真を見ての印象はまるで異なっていた。
2011-11-02 05:29:0215)実際に見た畠山の陸前高田の写真は、当たり前のような顔をして「畠山直哉」の写真だった。過去の作品とはアプローチが異なっていることや、破壊された町が写真家の故郷であり母を亡くした場所であるという「個人の物語」を、そこに感じることはなかった。
2011-11-02 05:29:1216)つまりそこに自分が見たものは、災害の当事者としての畠山の「個人の物語」や津波災害の「明瞭な記録」というよりも、むしろ「写真家:畠山直哉」であり、過去の作品とも一貫した彼の「表現」だったのだ。
2011-11-02 05:29:2217)展覧会としてもこの陸前高田の写真があって、はじめて一つの展示として完成しているように感じた。これらの写真自身が畠山の一連の仕事に対する「読み直し」を可能にしている。むしろこれらの写真があって初めて自分は畠山の作品を深く理解できたように思えた。
2011-11-02 05:29:3118)では、それらの作品から伝わってきたものとは何か? 俺はそれは「残酷さ」だと思った。津波の惨禍は凄まじい。しかし残酷なのは地震でも津波でもない。それは大いなる自然の営みの一つであって、自然の側に立てばそれは「残酷」でもなんでもないのだろう。
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