畠山直哉展「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」と「作者が自分の作品について語ること」の意味
19)では「残酷」なのは誰か? それはその惨状をも「美しく」撮影してしまう写真家である。そしてそれを「美しい」と感じてしまう俺である。「残酷さ」は自然の側にはない。それを見る人間の側にあるのである。
2011-11-02 05:29:5420)そして畠山の写真は、一貫してそのことを扱っているように思える。自然の力でできた眺望も、人間の手で自然に付けた傷痕も、自然によって破壊された人間の営みの残骸も、すべて等しく「美しい」と感じてしまうその性こそが「残酷」なのである。
2011-11-02 05:30:0321)津波の惨禍を「美しい」と感じることが倫理に反するから「残酷」なのではない。そもそもなにかを見て「美しい」と感じること自体が既に「残酷さ」を孕んでいるのである。人間は「美しさ」を感じる「残酷」な生き物なのだ。
2011-11-02 05:30:1522)「美しい」とはなにか? なぜ人間はそれを感じてしまうのか? それは、もしかしたら人間が背負う原罪なのかもしれない。そして、だからこそ、それは人間が人間であることの証なのかもしれない。畠山の写真はその事実を突きつけてくる。
2011-11-02 05:30:2423)そして「作品」もまた残酷なものである。それは作者の万感の思いや意図、あるいは置かれた身の境遇さえも、まるであざ笑うかのように裏切り、越えていくのだ。
2011-11-02 05:30:3524)では、陸前高田の写真に込められた作者の「制作意図」や「個人の物語」はどこに行ってしまったのか? それらは消え失せてしまったのか? そんなはずはあるまい。それは写真のなかに封じ込められているはずだ。
2011-11-02 05:30:4525)しかしそれは作者の「意図したとおり」には見る者に伝わらない。しかし今回の展示に関しては、むしろ作者の意図や思いを作品が裏切り、超えていたこそが、自分にとって一番の救いであり、希望のようにも感じられた。
2011-11-02 05:30:5626)今回の畠山の個展ではいろいろなことを考えさせられた。これは凄く重層的な展覧会だと思う。そしてその深みは、彼の作品が作者の思いや意図を超えたところから始まっているのだ。その意味において、自分は作者の「制作意図」には大いに意味があったのだと考える。(了)
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