斉万年がテイという事は、武威は彼のテリトリーではない。従って、その彼が武威で帰順した事は、そのまま樹機能の一味だった事を示している
2011-11-24 23:32:18つまり、樹機能の武威が失われたのだ。樹機能は馬隆が武威へ向かう道すがら、馬隆の三倍の兵力を以て襲い掛かったが、悉く失敗した。姜維が段谷で破れ、羌胡の信頼を失ったように、彼らは不利になれば寝返る。斉万年らの帰順は、馬隆が無事武威に着いた事に起因する
2011-11-24 23:37:06樹機能とは何なのだろうか?禿髪烏孤の伝では、彼が大乱を主導し、胡烈や牽弘、石鑒や楊欣を破ったように書かれている。だが、注意深く読んでいくと、実際に晋将を破ったのは樹機能ではなく、それに呼応した羌や胡、テイである。
2011-11-24 23:41:28一口に言えば、樹機能はアジテーターだ。多くの羌胡を扇動し乱を起こす。他の誰かが晋に反旗を翻せば、それに乗り多くの羌胡を扇動して乱の規模を広げる
2011-11-24 23:44:36樹機能自身に勇猛さや指揮能力が無くても良いのだ。そして、実際にも彼にそんな力は無かった。不利になれば降伏し、メッキが剥がれれば容易に破れる彼の事績からそれか窺える
2011-11-24 23:46:35そんな樹機能を破ったからとて、馬隆の評価には直結しない。むしろ、彼を評価すべきは、そんな樹機能のメッキを剥がした武威までの前進にある。だからこそ、晋書は樹機能との決戦を軽く見た。敵を蹴散らしながら武威に達した事で、勝負は見えていたのだ
2011-11-24 23:49:26やっぱあれだよね。disる材料も見当たらないのに、disりたいっていう天邪鬼な気持ちだけでdisろうとすると失敗するよね。
2011-11-25 00:36:41乱の範囲としては、郭淮の時代の治無戴らの乱の方が大きいように見えるが、あれは二年で鎮圧されている。鎮圧に掛かった時間の差が、郭淮と胡烈らの力量差によるものとも考えにくい。やはり艾艾のせいか?
2011-11-25 08:05:06@yunishio 界橋とはちょっと違うように思います。両方とも弩を主軸にしてますが、その運用は異なるかと。馬隆の方法は、敵を打ち破るのではなく、あくまで撃退して前進を続ける為の方法でしょう。武威に着くまでの彼は、武威に辿り着く事を重視していました
2011-11-25 19:09:16郭淮が対応した羌胡の乱でも、雍州刺史と征蜀護軍によって鎮圧され、都督の夏侯玄は出てこない。興勢の役で批判されていたのもあろうが、不自然な事に変わりはない。これは樹機能の時の司馬駿も同じ。異民族相手に都督は動かない、とかあるのか?
2011-11-25 19:19:45両者で条件が異なるのは、鮮卑が漢人の居住地に大量に流入していた事。もともと焼当羌も南安などにいたが、さらに多数の異民族が雑居するようになっていた。彼らが一斉に蜂起したらどうなるか?郡県は連携が取れず、孤立する。街道は封鎖される。
2011-11-25 19:26:33@Jominian もちろん目的は違いますが、麴義が少数民族との戦いかたに習熟していたというのは、騎兵を用いる最大の利点である機動性を減殺することを指していると思いますので、その意味では妄動を控えて固守し、機動を殺したところで一斉砲火を浴びせたところに共通点を感じます。
2011-11-25 19:41:07@yunishio 対蜀や対呉では、都督が前に出る事が多いのでそう感じてしまいましたが、よく考えると、都督が自ら赴く必要はないですよね。郭淮も陳泰も王渾も、危険な状況でない限りは、護軍や刺史の派遣で済ませてますね
2011-11-25 20:08:58@Jominian 夏侯玄も司馬駿も地方を安撫する統治手腕を期待されて都督に起用された人物なので、軍事手腕は別の人物が負うのは当然のことでしょうね
2011-11-25 20:18:28@yunishio @Jominian 防御陣を敷いて、接近してきたら射撃を浴びせるのは機動力や突破力が高い敵を迎撃する時の基本戦術です。フス戦争のターボル軍、チャルディラーンのオスマン軍、長篠の織田軍などは皆この原則に従っています
2011-11-25 20:21:49