東浩紀「WEB文学論」早稲田大学 ゼロ年代の想像力 ほしのこえ
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東「新本格以前のミステリーにはキャラクター小説の側面があった。読者は事件そのものではなくフィリップ・マーロウというキャラに萌えていた。新本格はそれに対するカウンターであり、論理性を再建しようとする試みだった」
2010-05-20 16:59:10東「その後新本格ミステリーは新たな進化の道を歩むことになる。清涼院流水のような、一言で言えば『めちゃくちゃ』な作家を生み始めたのだ」
2010-05-20 17:01:24東「清涼院流水の登場によって、『超能力を持った探偵が何千もの密室の謎を解く』という無意味で、その名の通り『カーニバル的』なものへとミステリーは変形していった」
2010-05-20 17:04:31東「舞城の九十九十九が重要なのは、全7話のエピソードが全て、話が進むごとにメタレベルが上昇する、非常に複雑な入れ子構造を伴った、清涼院流水のパロディ小説であるということだ」
2010-05-20 17:08:52東「その中では、実在する人物や、舞城自身の二次創作も挿入され、実際の文学・批評空間に対する批評が展開されることで、MAD的私小説とも言えるような、入れ子構造の私小説世界が展開されている」
2010-05-20 17:12:10東「(『キャラクター化するリアリズム』の図を参照しながら)九十九十九の中では過去・現在・未来の複数の時間を行き来しながら『僕』が増殖していく。作品世界の前提として、ゲーム的な発想――登場人物を操るプレイヤーがリセットを選択することで登場人物が再び蘇る――がある。
2010-05-20 17:19:32東「批評的で、MAD的私小説的で、複数可能性を描いていて、マルチエンディングノベルゲーム的で…要するに『この物語は複数存在する可能性の中の一つにしか過ぎない』と主人公が自覚している点が重要なのだ」
2010-05-20 17:23:27東「『クォンタム・ファミリーズ』においても、主人公の往人はAIRを分析した僕の批評からのサンプリングであるという点で複雑性を得ている。汐音もサンプリングだしね」
2010-05-20 17:37:22東「我々は『あったかもしれない複数の現実』の可能性について考えることができる『超越論的視点』を持っている。プレイヤーとキャラクターという『ゲームのメタファー』は世界を理解するための、新たな思考の可能性を提示している」名言キターーー!!!
2010-05-20 17:40:53東「ゼロ年代に『それでも私』と語ったのがセカイ系だった。セカイ系とは象徴界という社会を失った肥大化した私である。『私』の困難は『私の肥大化』と『メタ私』を創出した」
2010-05-20 17:45:39東「今日の授業のキモは、『信者乙』で終わってしまう徹底した相対主義が蔓延していたゼロ年代において、物語はメタ物語としての、プレイヤー視点とキャラクターから成立する『ゲーム的リアリズム』を必要とした、ということです」
2010-05-20 17:48:43東「ゲーム的リアリズムは、リチャード・ローティの言う『リベラリズムのアイロニー』に酷似している。詳しくは ローティ 偶然性 でググってみて下さい笑」
2010-05-20 17:53:37東「セカイ系を理解するためにほしのこえでも今日は観てみようかな、と思います。やはり大切なのは現在の想像力について考えることだと思うねで。文学史とかより」
2010-05-27 16:39:27東「セカイ系に対する批判というのは、女の子が出てきて男の子が出てきてなんか戦争してる、内容ないじゃん、内容書けよ、みたいなものだったんですけど、宇野くんの『ゼロ年代の想像力』におけるセカイ系批判っていうのは違ったんです」
2010-05-27 16:44:25東「宇野くんによれば、1995年~2001年までがセカイ系が想像力として有効だった時代で、それ以降――宇野くんによれば、小泉政権が分岐点なんですが――ネオリベの時代、「決断主義」「バトルロワイヤル」的な想像力の時代になったということです」
2010-05-27 16:47:24東「『決断主義』『バトルロワイヤル』を簡単に説明すると、それ以前のセカイ系の想像力――例えば『エヴァンゲリオン』が「正義なんてどこにもない」と主張したのに対し、それ以降の『デスノート』などでは「正義はない。だから俺が正義になる」といったものなんです」
2010-05-27 16:49:44