統一テスト、特別支援教育など公教育の日米の実情についてのやり取り

米国在住の@zankateiさんと、統一テスト、特別支援教育などの公教育の日米の実情についてやり取りしました。 見やすさのため順番は一部変更してます。 まとめ末尾に: ●滝川一廣氏の「発達スペクトラム」についての記事を引用しました。 ●@zankateiさんのブログ記事を引用しました。追加しました。 続きを読む
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ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続3)野球でもストライクゾーンを変えれば、打率≒能力は変わるでしょう。ましてや、その時その人の状況によって条件が大きく異なる通常の職場では、能力の/による評価・査定は困難でしょう。人毎に能力差があることは勿論ですが、@zankatei

2012-03-02 01:16:02
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続4)能力の内実について一概には論じられないのでは。「高校で自分で洋服を制作し、それを販売」>これは具体的な現場とかかわって、その結果をフィードバックする活動としてなら有用だと思います。実際に現場で体験して感触をつかむことが最大の@zankatei

2012-03-02 01:16:52
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続5)育成=能力の開発で、その仕事が自分に合うか否かある程度の見当がつくかもしれません。その点で「インターン」=実習生はうまく機能すれば良いのですが、以前問題となったアジアからの実習生=超低賃金の3K労働者となる恐れがあり、@zankatei

2012-03-02 01:17:36
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続6)受け入れ側と対等に交渉でき、適切に介入できることが必要かと。「資格取得」は転職などでメリットが明らかな場合は有用でしょうが、「この資格を取れば就職できる」は眉唾なことが多いことはよく指摘されていると思います。@zankatei

2012-03-02 01:18:20
谷口輝世子KiyokoTaniguchi @zankatei

@hijijikiki 最初のお返事が全くの言葉足らずでした。申し訳ありません。①人種、性別、年齢による就職差別はいけないので募集要項にこれらが掲載されることはありませんが、高卒、大卒、大学院卒、または同分野の経験1年以上などの記載はみかけます。ですので、米国社会として能力を、続

2012-03-02 01:42:45
谷口輝世子KiyokoTaniguchi @zankatei

@hijijikiki 続く 米国社会としては、各教育機関を卒業できたかどうかを能力を判断することに使っていることになります。②社員募集などの募集に実地経験や特定の資格などが求められているため、インターンや夜間大学で学ぶ人も多いのではないかと、私は考えています。

2012-03-02 01:46:29
谷口輝世子KiyokoTaniguchi @zankatei

@hijijikiki ③会社員の能力査定がどのように行われ、それが適切か妥当かに関しては、私は知識や経験がなく分かりません。ただ、転職の際には前の職場の上司から推薦状を書いてもらう人が多いようなので、上司の裁量にまかされている部分が多いのではと推測します。

2012-03-02 01:50:21
ひじじきき @hijijikiki

追加のご説明了解しました(続く)@zankatei最初のお返事が全くの言葉足らずでした。申し訳ありません。①人種、性別、年齢による就職差別はいけないので募集要項にこれらが掲載されることはありませんが、高卒、大卒、大学院卒、または同分野の経験1年以上などの記載はみかけます。ですの‥

2012-03-02 22:19:19
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続1)米国で差別禁止が強い以外、形の上では日米での就職事情は似ているようです。③の推薦状の話は、米国人から聞いたことがあり、慣習としてあるけど、効果は場合によりけりとのことでした。今の学校・就職状況で特徴的だと感じるのは、@zankatei

2012-03-02 22:20:26
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続2)昔の製造業中心から、サービス・情報産業への移行で、日米共に共通していると思います。製造業は技術革新で人手がいらなくなり、サービス・情報産業の需要が多くなったが、両産業共に要求するものが、今までの学校教育で育成される“学力” @zankatei

2012-03-02 22:21:26
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続3)とは異なってきているように感じます。更に製造業の省力化で求人数が減り、海外との競争で、単純労働・3K労働の賃金が低下する、という求職者に厳しい状況に。統一テストが日本でもPISA=OECD生徒の学習到達度調査を意識したものに@zankatei

2012-03-02 22:22:21
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続4)なってきてるのは、新たな状況で「使える人間」を選別するためだと思われます。この主流の動きに乗れる人はよいのですが、「発達障害」などを含む、そうでない大多数=99%?!が健康で文化的で差別されない生活を送るにはどうしたらよいのか。@zankatei

2012-03-02 22:23:46
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続5)その=「別の姿の世界」のためには、教育や就職、それへの支援なども大きな要素だと思います。例えば、@lessor_tw氏がブログhttp://t.co/TTQq8a2Kに書いているような@zankatei

2012-03-02 22:24:24
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki続6)能力主義や支援の問題に対する模索や場作りがその一例かと。話題が拡散して、長くなりました。この辺で。@zankatei

2012-03-02 22:24:58

滝川一廣氏の「発達スペクトラム」について、

日本福祉大学福祉社会開発研究所『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』

第120 号2009 年12 月
のp40-42から引用:

「発達障害」概念の政策対象化と問題構制

                    小坂啓史

http://research.n-fukushi.ac.jp/ps/research/usr/db/pdfs/00024-00004.pdf

  ....(省略)....

滝川によれば, 「発達障害」の本質とは精神発達の歩みの「遅れ」に他ならないとする(滝川
2008:46). つまり, 精神遅滞は認識(知的理解) の「遅れ」, 広汎性発達障害は関係(社会性)
の「遅れ」, 特異的発達障害は特定の精神能力の発達だけが取り残されて「遅れ」るもの, 注意
欠陥多動性障害(ADHD) は注意集中困難・多動・衝動性という乳幼児の行動特徴をもち続け
ているというかたちでの発達の「遅れ」, というようにである(滝川2008:46-47).
語義的にみても「発達障害」は「発達」が「障害」を被っていること, つまりは「発達」が
「遅れ」ていることを指すと考えられることからも, 以上の見解は把握しやすいものであるが,
http://twitpic.com/8gvvcz

ではこの「精神発達」の歩みそのもの
については, どのようなものと捉えら
れるのであろうか. この点について滝
川は, 図1 に見られるように「認識
(知的理解) の発達」と「関係(社会
性) の発達」の2 つの発達軸をもち,
この両者がお互いに支えあって進むも
のが「精神発達」であるとしている
(滝川2008:52-53). 我われはみな,
この図におけるZの矢印方向に沿った
かたちで楕円状に分布する(図1 にお
ける, 破線の楕円内) どこかの位置に
いるのであり, 関係発達が平均水準か
その近くまで届きながら, 認識発達が
平均に大きく届かないところに位置するものを「精神遅滞」, 認識発達も関係発達も平均に大き
く届かないところに位置するものを「自閉症」, 認識発達は平均あるいは平均以上だが, 関係発
達は平均に届かないところに位置するものを「アスペルガー症候群」, 「自閉症」と「アスペルガー
症候群」の間に位置するものが「高機能自閉症」としている(滝川2008:53-54). つまり, 「す
べては精神発達の連続的分布のうちにあり, 互いにつながりあっていて, どこからがどれと線が
引けるものではない」(滝川2008:54). 結局, 「発達障害」という「診断」は人工的なもの, 任
意なものであるためその範囲もいくらでも拡張しうることになり, その「線引き」は社会的な判
断によってなされるということになる. 従ってその意味では, 「発達障害とは社会の関数で, 私
たちの社会のありようとその社会を生きる私たちの姿を映し出す鏡」(滝川2008:55) であると
している.
こうした見解は他にも出てきており, 例えば心身障害児施設の現場経験をもつ村瀬学による見
解においても, 「知的世界」からの「おくれ」は「ちえおくれ(=知的障害)」とされ, 「社会機
構」からの「おくれ」は「自閉症」と「診断」されてきたとし, こうした「おくれ」に関しては,
文化や文明を創ってきたものの側の尺度によって「問題」視されてきたとする(村瀬2006:224).
つまり, 「おくれ」が存在するかどうかということではなく, 社会の側の状況によって問題とさ
れたりされなかったりすることそのものに問題があるのだということであり, さらにいえば実は
個人という存在は, 文明のシステムから常に「おくれる存在」として生きてきたということさえ
いえる, と指摘する(村瀬2006:224).
以上を踏まえると「発達障害」とは, 社会の「発達」という集合表象に依拠した社会的な関係
性の中で, それがその直線的な方向性に一致したものではなく, さらにその速さにも一致しない
とみなされることで問題として現象化したものであり, こうした状況を個人のレベルに即して精
神医学の立場から概念化されたものなのだ, ということがいえるだろう. つまり, 社会状況から
の逸脱として捉えられる個人的状況(とみなされるもの) が, 医療的枠組に組み込まれていく事
態の進展, つまり「逸脱の医療化」(Conrad & Schneider 1992=2003) という社会変動に即し
たかたちで, 「発達障害」概念も生まれてきたという説明が成立しうる. 「発達障害」に含まれる
個々の内容は, 社会の「発達」というベクトルからは逸脱しているという意味で, 共通した「障
害」とレイベリング(labeling) され一括りにされる. これが「発達障害」という一般概念の導
出に繋がる道筋である, ということがいえるであろう.

....(省略)....

 

「たにぐちきよこの日記   『子どもがひとりで遊べない国、アメリカ』(生活書院) 発売中!!」

から引用:
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2012-02-02

統一テスト妄想編

http://d.hatena.ne.jp/kiyoko26/20120202/1328237393

統一テスト結果の公表と教員評価、学校評価について。

 子どもたちに同じ内容のテストを同じ時間に受けてもらう。このこと自体は別に悪いことではないと思います。
 自分の学力が同級生の子と比べて、どのくらいかっていうのを知ることも悪いことではないと思います。

「序列化」という言葉は刺激が強いです。が、子どもたちには、あくまで「現時点の、このテストによる得点」であって、テストで計測されていない「学力」もあるし、「人間」や「性格」や「将来性」やそんなものの点数化ではないことを伝えてあげたいと思います。

 私が考えた利点
 ①同じ内容のテストにより、子どもたちの苦手とする単元や課題、得意とする単元や課題が分かり、今後の指導に活かせる。

 ②テストが外発的動機づけになって、教員側も子ども側も、指導、学習に力が入る。→教員の質向上ってことかな。

 どのような形で集計され、公表されるのかは分かりませんが、以下は私の妄想です。

 私が妄想した怖いところ

 ①学校単位の成績を算出するにあたって、特別教育支援級や支援校などに在籍する子どもたちを別に分類する場合、成績不振の子どもに何らかの診断名をつけ、支援級の生徒としてカウントしようとすること。

 ②子どものテスト結果を学校や教員の評価と連動させる場合、テスト作成者が、あまりにも低い点数の子どもが(教員や学校評価の低くなる)続出しないような問題作成をしてしまう危険性。→ テストの意味がなく、税金と労力のムダづかい。

 番外 米国では学校ぐるみでテスト結果を改ざんしていた事件があった。

 以上で妄想は終了です。

 

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2011-05-28

学校の廊下 取り出し

http://d.hatena.ne.jp/kiyoko26/20110528/1306606165

 週に1、2度、アメリカの小学校にボランティアに行っています。

 始業と終業のベルはあるのですが、他の休み時間は学年ごとにずれているせいか、

 1時間ごとにベルがなることはありません。

 そして、また、授業時間にも関わらず、廊下を通行する子どもたちが多いのです。

 スピーチセラピー、作業療法、バイリンガル児のための補習、

 ソーシャルワーカーと話をする、学習面で秀でた子どもの場合は、
 
 一つ上の学年で得意科目の授業を受ける、

 苦手科目だけ少人数の指導を受ける、個別にテストを受ける、など様々な理由で、

 子どもたちは担当の先生や、セラピストに連れられて、廊下をウロウロと歩き、教室を移動していきます。

 ひとりひとりの能力は違っているというアメリカ社会ならではの風景かと思います。

 かといって、授業中騒いではいけないという規律は厳しいのです。

 先生の言う通りに作業しない、騒ぐ、などの場合には、タイムアウトと称して、

 教室の一角に座らされ、授業に参加できないなどの罰があります。

 それでも、言うことを聞かない場合には、校長室へ行き、そこから保護者に連絡があります。

 「次やると、校長室へ行く」という"脅し"もときにみられ、私などちっとやりすぎではと思うほどです。

 それはさておき、

 この廊下でウロウロと移動する子どもたちを見て、ふと、日本の特別支援教育のことが頭に浮かびました。
 
 私は日本の特別支援教育のことは何も知りません。ですので、ここで何か意見を述べる立場にはありません。

 ただ クラスで授業を受け、時々、支援クラスへ行く子も、支援クラスからクラスへ通う場合も、

 日本では、その学校の運営様式ゆえに、「みんな」と違った子 という受け止められ方をしないかという懸念を抱きました。

 日本の場合は「みんな」に、個人があわせられるからこそ、震災時でも世界が驚くように暴行や略奪が少ないのだと思います。

 アメリカの場合はひとりひとりが違い過ぎて「みんな」という枠組みがあいまいです。

 日本にも、アメリカにも、他の国にも、スペシャル・エデュケーションはあります。

 教育内容とか、指導法などはお互い取り入れあうことができると思いますが、

 けれど、その国々の社会構造のなかで、特別支援教育を、どう位置づけていくかは、

 やっぱり国ごとに努力がいるのではないかと思いました。

 


2012-01-13

スクールポリスのこと

http://d.hatena.ne.jp/kiyoko26/20120113/1326475260

 spitzbaraさんのブログを読んで考えたこと。

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64617042.html
 

 テキサス州の学校でスクールポリスが子どもたちの「授業妨害行為」を取り締まり、逮捕までしているという話。 

 学校で、自分の子どもが『問題児』によってケガさせられる危険を恐れる親によるクレームの力も、スクールポリスとは無関係ではないだろう。

 保護者の『不安』や『苦情』が学校に持ち込まれる。学校はそれに対応するべく『規則を強化』する。この繰り返しによって、子どもたちの『自由』がじわじわと掠め取られていく。

 保護者から学校や先生に伝えなければいけないことはある。学校側も親からの申し出に真剣に対処しなければいけない。

 しかし、時々、何のため、誰のためということを忘れてしまい、ただ不安や苦情をぶつけて、結局は誰にとっても、あまり好ましくないルールを作って、窮屈になった感じだけを残して終結させるということにつながっていないかと、ふと、思う。

 また、このブログの発達障害や知的障害を持つ子どもたちにも、この基準によって逮捕されていると記されている。

 それで私はコメント欄に
 
 スクールポリスによる取り締まりは、発達障害や知的障害を持つ子どもたちの新たな排除ではないかと書き込んだ。

 なぜかというと、こんな話を聞いたから。
 
 自閉症の子どもが、親の希望で普通学級で学習していた。この自閉症の子どもはクラスメートを殴ったり、先生を殴ったりということが何度もあった。中学生になるころには、彼は人一倍体格がよかったことから、殴られる側がより危険を感じるということがあったらしい。

 学校側は「彼にとって落ち着いて学習できる環境を与えたい」と、保護者にクラスを離れて学習することを提案。しかし、保護者側が「教育の機会均等の権利」を主張して、これを拒否して普通学級に在籍していた。

 しかし、学校(たぶん市の学区だと思う)が最終的に裁判所へ持ち込み、この自閉症の彼をスペシャル・エデュケーションクラスへ転校させるべきだと訴え、2年間の法廷闘争の後、彼はスペシャル・エデユケーションへ移っていったという。

 裁判所で争うことはお金もいる。担任の先生も出廷するなどで授業にも影響が出る。スクールポリスで一斉に取り締まるほうがラクで効果的というワケか。

 私は全く知識もなく、経験も不足していて教育の機会均等の権利と、スクールポリスのことについて何かを述べることはできない。

 でも、自閉症の彼も、同じクラスの子どもも、大人の議論から、置き去りにされていないかと、思った。

 


@spitzibaraさんのブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」
から引用。
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授業中にケンカをすればスクール・ポリスがやってくる。そして逮捕。 (TX)

2012/1/12(木) 午後 3:49
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64617042.html

学校の教室で、運動場で、食堂で、通学バスの中で、子どもというものは、
ふざける、ケンカする、先生にしょーもない反抗もする。大声でさわぐ。
タバコは持ちこむ。別れる別れないで牛乳ぶっかけあう。
授業中に紙飛行機も飛ばす。ヘ―ンな恰好で来るヤツもいる。
遅刻なんかザラのはず。

でも、これみんな、
この記事に書いてあった「逮捕」の対象となった行為――。

米国テキサス州などの子どもたちが、こうした学校や学校の敷地周辺での
子どもなら当たり前にやるだろう行為を「授業妨害」などの“罪”に問われ
逮捕されている、という。

逮捕するのは、銃とスタンガンを携行し学校に常駐している警察官。

テキサス州やその他多くの州で
何百もの学校が“スクール・ポリス”を常駐させ、
警察には“スクール・ポリス”の部署がある。
任務は keep order。秩序を守ること。
ここ20年くらいで急増したという。

誰が呼んだか「学校―刑務所パイプライン」。

「クラスC軽犯罪」は立派に犯罪なので
その切符を切られた子どもたちは裁判所に出頭しなければならない。
そこで罰金や地域での奉仕活動を科せられたり、収監される場合もある。
もちろん記録にも残り、後々の進学や就職にも影響する。

時には500ドルにも上ることがある罰金は、貧困層の親には払えない。
だから払わずに放っておくことが多いけれど、すると
子どもが17歳になった時に召喚状が届く。
なにしろ立派に犯罪なのだから。

米国の軒並み学費がバカ高い大学に行くために
みんながそうするように奨学金を申請すると
そんなささやかな逮捕歴が見つかって却下される。

テキサス州で2010年にこの切符を切られて上記の処罰を受けた子どもは
のべ30万人に迫り、中には6歳の子も。こんなもんじゃないという説も。

約30%はドラッグまたは飲酒がらみのチケットだというが
「武器の使用」理由が20%というスクール・ディストリクトもある。
その多くで「武器」とは「げんこつ」の意。

それに何より、一度逮捕されると、「問題児」として目をつけられ、
その影響から、昔なら教師が叱ったり親に電話すれば終わっていた程度のことが
将来監獄で過ごす人生へと子どもを方向づけてしまうこともある。

記事によると、1980年代にドラッグ絡みの犯罪が急増し、
その対策として「ゼロ・トラレンス」が言われるようになった。
90年代に入って青少年の犯罪の急増が社会問題化したところに
例のコロンバイン高校の乱射事件が起き、学校の安全を求める声の高まりなどで
ドラッグ取り締まりの「ゼロ・トラレンス」姿勢が学校に広がっていった、という背景。

しかし、切符を切られた子ども達と日々向かい合う判事その人まで
「こんなのは大人がやったら違反にもならない行為なのに、問題視され始めている。
学校が少しずつ構内のことで警察やセキュリティに頼り始めている感じはしていたけれど、
それがいきなり過剰になって、警察によって子どもの日常行動をコントロールさせている」。

こうした法律のあり方を懸念する声はもちろんあって、
連邦政府も、やめるべきだと言っている。

10歳から犯罪責任があるテキサス州では去年、
10歳と11歳には教室内での行為によって切符を切らないよう条例を改正した。
それ以上の改正を望んだ議員らもあったが、抵抗に会って実現しなかった。

教師の中にも、スクール・ポリスの存在を歓迎する声は意外に多い。

昔の学校とは違って、ふてぶてしく、やりたい放題の子どもばかり。
親にも子どもがコントロールできない。授業中だって学ぶ気はなく妨害したいだけ。
そういう子どもの管理にエネルギーを使わせられて教えることに集中できないから
教えることに集中できるようにポリスがいる。

いかつい生徒が反抗的な態度で迫ってきたら教師だって身の危険を感じる。
実際、教室で撃たれて死んだ教師もいる。
身の心配をせずに教師が授業に集中できるにもポリスは必要。

そりゃ、やり過ぎの面もあるから、
警官にはもうちょっと常識的に、と望みたいところはあるけど、
警官はそういうのが仕事だからね。ある程度はやむを得ないというか……などなど。

ここまで、全部、現役または引退後の教師の声だから驚く。
さらに警察のスクール・ポリス部局の責任者の言うことがすごくて、

「逮捕の基準は、まぁ、それぞれの警官次第。
人のすることだから、たまには間違いも起こる
裁判官だって5人が同じ事件を審判すれば5通りの判決を出す。
医者だって一人の患者を5人が診断すれば5通りになる」
(判決も診断も5通りあるようじゃいかんと思うんですけど)

一番気になるのは、知的障害・発達障害のある子ども達も
同じゼロ・トラレンス姿勢で逮捕されているのでは、との懸念。

具体的な事件を記事から拾ってみると、

Sara Bustamantsさん(12)
ADHDと双極性障害を診断されており、肥満を気にしている。
「私って変だから、みんなに嫌われている」。
みんなに酷いことを言われ苛められるから自分の身体に香水をかけてみた。
すると臭いと言って周りが騒いだため、教師がポリスを呼び、逮捕。
その後、障害者団体の支援で訴訟を起こし、起訴は取り下げられたが
まず自分で叱ろうとせずポリスを呼んで逮捕させた教師に、母親は
教師が子どもたちへの指導責任を放棄していると憤っている。

匿名の18歳の青年。
ADHDと診断されている。
12歳の時に授業中にかっとなり机をひっくり返した。
攻撃的行為で有罪となり、若年者の監獄に送られる。
出るためには一定の教育目標と行動目標をクリアしなければならず、
障害のために彼にとっては、それは無理。

こんなふうに障害のある子どもたちの多くが
ムショ送りにされ、そのまま出てくることができなくなっている。

IQが70を下回る匿名の少年。事件当時16歳。
廊下で警官の言うことを理解しなかったため、催涙ガスをかけられた。
目の痛みのために振り回した腕が警官に当たり、公務執行妨害で逮捕され、
裁判がこれから行われることになっている。懲役刑の可能性も。

障害とは無関係ながら、フロリダ州の学校では
ジョン・ケリー上院議員に失礼な質問をし、制止されても止めなかった生徒が
ポリスにスタンガンを使われている。

The US schools with their own police
The Guardian, January 9, 2012

絶句したけれど、考えてみれば、
警察権力による子どものコントロールよりも以前に
薬による子どものコントロールは始まっていた。

「年齢相応の子どもの行動が病気扱いされている」との指摘と関連エントリーのリンク一覧こちら ↓
「製薬会社に踊らされて子どもの問題行動に薬飲ませ過ぎ」と英国の教育心理学者(2011/1/18)

テキサスにはそういうことが起きやすい文化的な土壌もあるような気も。真っ先に思い出したのが、これ ↓
米国には体罰を禁止していない州が20もある(2009/8/11)

次に頭に浮かんだのが、テキサスといえば米国で最もラディカルな“無益な治療”法 ↓
生命維持の中止まで免罪する「無益な治療法」はTXのみ(2011/1/21)

その最も有名な訴訟がゴンザレス事件 ↓
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判

こういう現象の根っこにあるものに関して考がえてみたエントリーは、これ ↓
「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」から「メディカル・コントロールの世界」へ(2011/12/20)
「子どもがひとりで遊べない」世界から、人が「能力」と「機能」の集合体でしかない未来へ?(2011/12/21)

それから「子どもがひとりで遊べない」の著者の谷口さんと
10日の補遺のコメント欄でやりとりしたことも関係があると思われ、↓
2012年1月10日の補遺(2

 

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