- jonathanohn
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〈私的制裁〉―「ビンタをとられ、11月に水風呂に入れられた」「一人が誤ちをすると、全員ビンタが辛かった」「悪くもないのに、気に食わないだけで撲られた」「なにが嫌だといっても、要領よい奴がいて、階級が上り、勲章も貰うことだった」など。
2012-06-03 23:13:58〈訓練、学課の辛さ〉―軍事教練や銃剣術の辛さは余り語られていないようである。逆に農民兵士以外の兵隊に対し「学校出だなんていっても2、3回撲られるとヘナヘナとなってよ、ムジェ(不憫な)ようだったじェ。なに、学校の先生だ、役人だます(でございます)ったって、おなじことだてば・・・」
2012-06-03 23:22:33困ったのは学課教育だったようである。「勅諭など出来ないと、出来るまで強要されるのが辛かった」「オラみてェな百姓アタマ、軍人勅諭だ、それなんだって、暗記せと言われたってムリだからな、毎日黒血たまるぐれェたたかれたもんだ。だども、しまいにはオラだって出来るようになるっけがらな」。
2012-06-03 23:31:30〈戦地、捕虜生活〉―「食べ物がなく、青菜をゆでたものを塩なしで一カ月も食べた」「南方でへび・ねずみ・かたつむりなど食べた話」「シベリアでの厳寒時、食糧が乏しく松の皮まで焼いて食べた話、内地帰還時、伝染病や栄養失調で死人が続出したこと」
2012-06-03 23:37:52戦争の悲哀。「女、子供が無惨に死んでいる所を歩くとき、特に母親がその子の手を握って死んでいたのは、今も忘れない」「戦友が弾に当たりのたうちまわりながら“おかあさん”“おかあさん”と呼んで死んでいったが、そのうめき声が今でも聞えるようだ」など。
2012-06-03 23:40:27@bukrd405 昔の農民が外の世界を見たことがないという言説には若干の違和感があり、農業だけで食っていける(農閑期にすることがない)ような農村はまず存在しない。農民は農閑期には季節労働者になって地方の中核都市や手近な大都市に出て行っているというのが速水融先生の説
2012-06-03 22:51:02@centurio_P することがないは私も言い過ぎましたが、農村内部でも労働需要に季節変動があるのは事実でそういう農村内部で余った労働力を吸収していた(そして広範囲に吸収すれば年中安定する)のが一昔前までの都市の役割だったのかと
2012-06-03 23:35:48wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/猫ちぐら
猫ちぐら(ねこ-)、猫つぐらとは、藁を編んで作った猫用のペットハウスの一種。新潟県関川村、および秋山郷(同県津南町と長野県栄村)周辺の伝統民芸品である。関川村では「猫ちぐら」と呼び、秋山郷では「猫つぐら」と呼ぶ人が多い。
ちぐら(つぐら)は「稚座」と書き、新潟の方言で籠のことである。米どころであり多産の新潟地方では乳幼児を稲藁で編んだ籠に入れておく習慣があり、雪に閉ざされる新潟県での冬季における副業として、作られてきた[1]。
@centurio_P スラムは……近代以前ならどこでもあるのでは? 前に挙げた速水先生によると、江戸時代の日本で出生率が低い方から3地域が江戸・大阪・京都で、農村であぶれた人口が都市に溜まって死ぬということから速水先生は「都市アリジゴク論」と仰っていますw
2012-06-03 23:57:31@giteki 今思い出したのですが、津山事件の犯人は確か岡山の農村から汽車で神戸に出てきて銃砲店で銃を購入しているので、日中戦争の頃だと、僻村の農民でも何か大事な用があるときは都市に出てきたのかもしれません。
2012-06-04 08:25:37@giteki ご指摘を受けて、農村と都市の関係について調べてみましたが、例えば近世期には大阪の町に野菜を供給する「畑場」として知られた村々がありました。その一つである難波村の農家は、明治になっても大阪天満の青物市場に産物を持参し、市場の値段に一喜一憂していたそうです。
2012-06-04 12:38:48@giteki つまり、これらの地域の農民は商業的な農業経営に深くなじんでようです。難波村はまた、徳島県の各地と並び、藍の産地としても有名で、この藍生産も商業思想をこの地の農民たちの心に植え付けていたとか。ただ、これはあくまで大阪という大都市近郊の農村です。
2012-06-04 12:42:03@jonathanohn @secilia2010 @dragoner_JP @amefurasi33 @drkinokoru ありがとうございます。ソースは『近代民衆の記録 8 兵士』です。http://t.co/dtqt3A6M
2012-06-04 12:26:33