- a_nightbreed
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↑この辺で出てきた言説の検証
壁|v´) 調査終了。崔鳴吉『遅川集』収録の「移陳都督咨(丁丑)」に該当記述「二月初二日放兵十五日畢渡漢江而被俘人口無慮五十余万(後略)」が存在。(続く http://t.co/4yEWAZBH
2012-08-01 21:07:16壁|vΦ) テキストは韓国文集編纂委員会『遅川先生文集3』(景仁文化社 1997)p205~226収録「移陳都督咨(丁丑)」p223(続く http://t.co/ZOyKTO68
2012-08-01 21:07:45壁|vΦ) 但し、該当記述を有する文書の性質・背景を検討しなくてはいけない。まず題名を見ると陳という姓の都督に宛てた返信書状であることが分かる。都督は明の官名であり、登州(山東半島)都督の陳弘範を指す。また「丁丑」は仁祖15年(1637年)を指す。(続く
2012-08-01 21:08:06壁|vΦ) そこで『仁祖実録』の仁祖15年条から陳弘範と書状に関する記事を捜すと、6月3日条に以下の記述がある。「上曰冬至使回還時陳都督所言五件事廟堂何以議定耶(中略)上曰昨聞使臣之言五件中緊語在於陪臣入送之事云而予意則以為所望専在於舟師也(続く
2012-08-01 21:08:18壁|vΦ) 且雖不可別遣差人而以我国不得已之事情為答書下送于平安監司以待漢人之来而密伝之似好矣清国崔鳴吉曰文飤煩於観聴以言回答亦可矣上曰以言回答則中間必致訛伝速製答書以送可也」つまり仁祖は、陳弘範が希望する朝鮮水軍の派遣ができない状況であることを(続く
2012-08-01 21:08:31壁|vΦ) 使者を派遣し陳に説明しようとした。金瑬は清に漏洩することを惧れ、崔鳴吉は使者の口伝てならいいだろうと言ったが、仁祖は口伝てだと間違いがあるので書状を速やかに作って送れと決定したということである。これが背景。(続く
2012-08-01 21:08:52壁|vΦ) 文書の性質としては、明の陳弘範に要望されている援軍を出せない状況であることを説明する文書である。内容は、丙子胡乱について詳説し国土の荒廃を訴えている。実際には三田渡で跪かされて明との関係を断絶するよう抑え込まれたので出兵できないのだが、(続く
2012-08-01 21:09:01壁|vΦ) 明を天朝とする建前上それは言えない。ゆえに国土の荒廃を誇張して書いたと考えられる。つまり「被俘人口無慮五十余万」は事実そのものではなく、朝鮮の苦境・荒廃ぶりをアピールする修辞的表現であると見るのが妥当ではないか。(続く
2012-08-01 21:09:26壁|vΦ) 6月3日条で仁祖が作成を命じた書状を『移陳都督咨』に比定した根拠としては、『粛宗実録』粛宗27年(1701年)5月21日条に「錫鼎曰(中略)丁丑下城朝家移咨于陳都督弘範以達小邦情実臣祖父故相臣鳴吉及故判書李植俱承命撰咨而諸人戦亡之状明白具載」とあり(続く
2012-08-01 21:09:38壁|vΦ) 崔鳴吉の孫である崔錫鼎が「丁丑の年に陳弘範に小国の実情を訴えたが、祖父崔鳴吉と李植が書状を作って国土荒廃の状況を明記した」と述べたことも考慮した。終わり。
2012-08-01 21:10:01@xiaoke_As そもそも、清との講話が成立した直後に講和の条件にもない捕虜を取られるというのは不自然でですねえ。( ´H`)y-~~
2012-08-01 21:17:10@xiaoke_As 乙。そうか、国内向けではなく、国外向けか。そりゃあ「蒙古」と書くわなあ。それにしても、昨日偽作した表現のママだなあ、こりゃ(w
2012-08-01 21:20:41@jpn1_rok0 壁|v´) まぁ、漢城・江華島陥落時の捕虜だとは思いますが、明らかに多すぎでw
2012-08-01 21:22:13@_polalis_ 壁|v´) 原文見て「そのまんまや!」とびっくりしたんですよ。ほんとに。「ダツ(ケモノ偏+達)」など明向けの修辞になってますね。
2012-08-01 21:25:08@xiaoke_As …李朝官僚になれるかしら?(w ま、ともあれ、丁丑年に明に宛てた、ということが分かれば、評価は自ずと定まり。そうして見ると「被搶之患甚於来時」が、実に味わい深い。
2012-08-01 21:27:37@jpn1_rok0 基本は、嘘は<できるだけ>書かない、本当のことも書かなくて良いことは書かない。後は「お察し下さい」で(w
2012-08-01 21:34:00