ヴェネツィア・ビエンナーレにしてもだ、束芋より田中功起、植松由佳より蔵屋美香なのは分かり切った事だろう。だから無視してはどうだろう。
2010-07-20 22:48:10これは言っておくと、田中功起は重要である。蔵屋美香も絶対に無視してはいけない。彼女の論文は東近美のサイトで劉生論などのPDFが手に入る。面白いから読むべきである。
2010-07-20 22:51:00それから、瀬戸内国際芸術祭にしてもだ、青木野枝が気に食わない人は無視してはどうか。何が恒久設置だ。毎朝、犬の散歩のついでに小便かけてやれば良いのではないか。その逆に、市民運動が気に食わない人も無視すれば良いのだ。
2010-07-20 22:53:53リツイートも、Togetterも、時に大いに批評性を欠き、素朴な煽動にしか見えない場合がある。ネタ元をググり、かつ吟味する位でなければ、それらは無視の批評性にも劣るであろう。
2010-07-20 22:56:40誤解を恐れずに言えば、批評の肝は弱いものイジメを芸に高める所にある。そして無視する事は、七年殺しのように必殺の批評であり得ると思うのだ。タイムラインの中に歴史はない。
2010-07-20 23:01:19タイムラインの中に歴史はない。タイムラインの中にしかないものは、歴史ではない。あのアートとかいうやつは、近頃どうもTwitterの中にのみ存在しているような気もするが。
2010-07-20 23:07:48批評は、弱いものイジメだ。弱いものイジメを憎む人は、誰にも意見しないがいい。勿論、無敵の矛も盾も存在しない。その酷烈な前提に立ち得る夢想的な知性こそが、弱いものイジメの狂気に親しめる。タフな仕事である。皮肉ではない。全くない。
2010-07-21 04:03:58RT @kenjirookazaki: 批評は無敵。原理的に、対象(相手)の構造の弱点をつき(見いだし)、転倒させる。だから対象に強いも弱いもない、どんな構造にも転倒する点がある。のだから弱いものイジメとあえていう必要はないでしょう。
2010-07-21 04:29:53.@kenjirookazaki しかし批評は、弱さをめぐって生まれるのではないでしょうか。弱いものイジメ、あるいは弱さと強さの対応関係は、絶えざる転倒です。転倒させる事は、転倒する事でしょう。「無敵」なのは、こうした運動の原理だと思われます。
2010-07-21 04:31:37@qualquelle 無敵とは言い換えれば敵、味方の区分さえ消滅させてしまうということですね。いいかえれば批評は敵による自己正当化はできない。共通の敵(という共同体的前提などさえ、ぶっこわす)などというものがない。つまりは、敵によって自己正当化しようとする弱さこそをぶっ壊す
2010-07-21 04:54:41@qualquelle これは一種、主人と奴隷の弁証法のようなものです。こうした批評の無敵の運動によって、発見されるのは主人そのものの弱さであり、その(弱さという構造の)構造的駆逐です。
2010-07-21 04:56:59@qualquelle 例えば権威を振りかざさないと正当化できない(例えば観光とか)は権威主義の奴隷そのものです。だが本物の奴隷はその権威主義の弱さを見抜く。機能している観光も土木もそれ自体の独自の効能で勝負できるが、それらはそれがないゆえに芸術という名(権威)で覆い隠すのだと。
2010-07-21 05:04:23@qualquelle たとえば現実的に観光として機能している観光も土木も、わざわざ芸術という名を必要としない。観光でありながら(ディズニーランドも国定公園も芸術という名など必要としない)、芸術という名称を使わなければならぬのは、それを明確に表示できない、弱さそのものの現れ。
2010-07-21 05:13:43@qualquelle 芸術批評をまともに行えば、「芸術」という語を自明の自同律「芸術は芸術である」として使うことはできない。たとえば美大の講評会で学生が「これは芸術です」といっても誰も取り合わないし、先生が学生に向かって「芸術だ」といっても相手にされない。学会でも同じ。
2010-07-21 05:24:03@qualquelle 程度の低い美大ですらそう。権威主義はそこでは成立しない。(権威ではなく政治=権力が存在することはあっても)。権威が行使されるのは外部に向けての言説。たとえば観光や土木業務に対しての言説。批評家が権威主義的になるのは批評家ではなく彼が啓蒙家として振るまうとき
2010-07-21 05:28:46@qualquelle これがたとえば、批評それ自身の弱さです。批評それ自身の弱さが出現するのは、批評が歴史的言説を騙るとき(既成事実のように騙るとき)。それをまず、イジメるのは確かに批評の出発点です。
2010-07-21 05:31:33.@kenjirookazaki たくさんのリプライを有難うございます。遅くなってしまいましたが、合いの手めいたコメンタリーを綴らせて頂きます。
2010-07-22 01:37:56QT @kenjirookazaki: 無敵とは言い換えれば敵、味方の区分さえ消滅させてしまう…。…批評は敵による自己正当化はできない。共通の敵(という共同体的前提などさえ、ぶっこわす)などというものがない。つまりは、敵によって自己正当化しようとする弱さこそをぶっ壊す
2010-07-22 01:39:18.@kenjirookazaki そのような意味での「批評」は、人間が弱者である事を教え、その弱さを克服する事の不可能も教えるのではないでしょうか。批評が無敵であるのは、それが最終的にはどんな人間にも帰属しない事においてであると思われます。まるで宇宙人とか猫のように。
2010-07-22 01:41:12RT @kenjirookazaki: @qualquelle これは一種、主人と奴隷の弁証法のようなものです。こうした批評の無敵の運動によって、発見されるのは主人そのものの弱さであり、その(弱さという構造の)構造的駆逐です。
2010-07-22 01:41:50.@kenjirookazaki 「批評」は人を満足させません。それを仮に擬人化するなら、「批評」は「批評」自身によってしか満足しないのだと思われます。「批評」こそは完璧なオートノミーではないでしょうか。
2010-07-22 01:42:29QT @kenjirookazaki: 例えば権威を振りかざさないと正当化できない(…観光とか)は権威主義の奴隷そのもの…。だが本物の奴隷はその権威主義の弱さを見抜く。機能している観光も土木もそれ自体の独自の効能で勝負できるが、…それがないゆえに芸術という名(権威)で覆い隠す…
2010-07-22 01:43:43.@kenjirookazaki 弱さを衝くものは、弱さそのものです。多くの場合、芸術は弱さ、あるいは虚無から生まれます。このような芸術、その偽善、それによって装われた権威も、「批評」と呼ぶ事が出来ると考えます。
2010-07-22 01:44:48