【但し】曹操による鄴-邯鄲広域防御コンプレックス攻略から見る地政学【保留】

nisekuro_at さんの力作ですがあえなく保留になりました 続き 中国古代史を中心とした治水の重要性について http://togetter.com/li/372376
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黒田タケフミ @nisekuro_at

【三国志の地政学:魏国王畿の地政学】  「三国志が無くなったら、みんな死ぬしかないじゃない!?」里に下りてきた蜻蛉と戯れるニセクロです。黄色は正義!  まあ黄色の事はどうでもいいんですが。今回は三国志の地政学MAXPARTって感じで。

2012-09-12 20:40:50
黒田タケフミ @nisekuro_at

「南陽の地政学」http://t.co/tGCPdBvS 「(公孫瓚の戦略に見る)幽州割拠の地政学」http://t.co/skAGJwxbhttp://t.co/gpg99tPP 「潼関の戦いに見る地政学」http://t.co/0bzkMvKd

2012-09-12 20:41:23
黒田タケフミ @nisekuro_at

http://t.co/VVO5fvP1 に続きましての「魏国王畿の地政学」、曹操の対袁尚戦で鄴城攻略戦のグランドキャンペーンを解説しながら当該地域の地政学的要件に踏込みます。これで「南陽の地政学」時にプロットの出来てた初期構想分は終わり。しかも最大級。

2012-09-12 20:41:37
黒田タケフミ @nisekuro_at

それにしてもしかし。最初の「南陽の地政学」初出が2004年8月13日付だから・・・おおぅ、ふ・・は、八年越しの完成かよ。本当は四五年前までには上げる積りだったんだよ!ほんとだよ!でもでもある資料を作るのがとてもめどくてサボってたんだよ!

2012-09-12 20:41:51
黒田タケフミ @nisekuro_at

で、今更今になってテキスト作りこむ気になったのは何故かってーと、今回その資料が他人様の手で作られたから楽できるってことでやる気が沸いたとかそういう感じだよ!本当に酷いなおい!

2012-09-12 20:41:58
黒田タケフミ @nisekuro_at

ということで曹操の鄴城攻略をば。  曹操の鄴攻略は都合三回行われている。一度目は建安八年(203年)。前年五月夏、袁紹が死んで袁紹の小子の袁尚が代わり、長子の袁譚が車騎将軍を自号して黎陽に駐屯したのを受けて秋九月に袁氏征討に向かい、

2012-09-12 20:42:19
黒田タケフミ @nisekuro_at

翌春三月、連戦の末に袁譚、袁尚を破って彼らを敗走させると夏四月、鄴へ軍を進める。三国志ではこの後、五月になって許に還ることとなり賈信を留めて黎陽に駐屯させたとあるが、その経緯が省かれている。後漢書袁紹伝では袁譚の逆撃を喰らって逆に破られて撤退した旨、描かれている。

2012-09-12 20:42:27
黒田タケフミ @nisekuro_at

この敗戦は尾を引く。曹操はその直後に一つの令を出さざるを得なくなる状況に置かれた。三国志魏武帝紀はいう。「令曰:「司馬法『將軍死綏』,故趙括之母,乞不坐括。是古之將者,軍破于外,而家受罪于内也。自命將征行,但賞功而不罰罪,非國典也。其令諸將出征,敗軍者抵罪,失利者免官爵。」」

2012-09-12 20:42:43
黒田タケフミ @nisekuro_at

ほぼ訳:「令して曰く:「司馬法では『將軍は死すとも綏す(前へ進む)』という,故に趙括之母は,趙括(の敗戦)に坐さないよう乞うたのだ。是れ古之將にある者は,軍が外に于いて破れれば,而して家は内に于いて罪を受けたのである。自ら將に命じて征行させるにあたって,

2012-09-12 20:43:01
黒田タケフミ @nisekuro_at

但だ功を賞して而して罪を罰さざるは,國典に非ず。其れ諸將を令て出征せしむにあたり,軍を敗れしむ者は罪に抵たり,利を失った者は官爵を免ず。」」  はい。この布令によって、曹操はめっちゃ行動を縛られます。なんせ負けたら司空ボッシュート!って、ほんとにそうなるかどうかは知らんけど。

2012-09-12 20:43:23
黒田タケフミ @nisekuro_at

そして二度目の鄴攻めは建安八年秋。三国志では二度目の袁尚攻めと三度目の袁尚攻めの間を上手く語らないことで、二度目と三度目を繋げてしまっているが、三国志袁紹伝では二度目の侵攻と三度目の侵攻がはっきり区分けされて描かれている。三国志武帝紀でこの辺りの時系列を良く見ると

2012-09-12 20:43:58
黒田タケフミ @nisekuro_at

やけに袁尚の袁譚攻めが間延びし、曹操の行動も待機時間が長くて変だな?と気付くのでそのまま袁紹伝の方を見ると成程、と分かるように作ってる訳だ。なんという陳寿!

2012-09-12 20:44:12
黒田タケフミ @nisekuro_at

以下その三国志袁紹伝原文:「尚聞太祖北,釋平原還鄴。其將呂曠、呂翔叛尚歸太祖,譚復陰刻將軍印假曠、翔。太祖知譚詐,與結婚以安之,乃引軍還。尚使審配、蘇由守鄴,復攻譚平原。」

2012-09-12 20:44:18
黒田タケフミ @nisekuro_at

そのほぼ訳:「袁尚は太祖が北のかたへむかったと聞くと,平原を釋(ゆる)して鄴へ還った。其の將の呂曠、呂翔が袁尚から叛いて太祖に帰し,袁譚は復た陰ながら將軍の印を刻んで呂曠、呂翔に仮した。太祖は袁譚の詐(いつわ)りを知ったが,

2012-09-12 20:44:41
黒田タケフミ @nisekuro_at

これと婚(姻)を結んで以って之を安んぜしむと,乃ち軍を引いて還った。【ここまで二度目の軍事行動】 袁尚は審配、蘇由を使て鄴を守らしむと,復た袁譚を平原に攻めた。」

2012-09-12 20:48:31
黒田タケフミ @nisekuro_at

ここで二度目の袁尚攻めと撤兵に至るまでの経緯を説明する。 これまで袁紹及び袁家側との戦いに専心せざるを得なかった曹操の状況に乗じて劉表が劉備を使て南陽盆地外縁部まで制圧、許へ圧力を掛けてきたため、劉表征討へ赴かざるを得なくなって西平へ軍を進める。

2012-09-12 20:48:40
黒田タケフミ @nisekuro_at

その間に袁譚、袁尚は前回の対曹操戦の結果深刻な仲間割れを起こして互いを攻め合い始める。此処で袁譚は袁尚に敗れ、撤退して平原に立て篭もると曹操と組む。恐らくこの行動が他の袁氏に協力する勢力が袁譚から離れることになった切っ掛けだと思うのだがそれはまあ此処で置いとく。

2012-09-12 20:48:48
黒田タケフミ @nisekuro_at

曹操と組もうとの袁譚側の申し出に曹操側は誰もかれもが何かの策ではと疑ったが、荀攸の勧めで曹操はこれを受諾。劉表攻めを打ち切って袁尚攻略に方針を転換する。黄河を渡り黎陽に到ったところで、その報を聞いた袁尚はそのままだと西方の(平原から見て黎陽は西)曹操、眼前の袁譚と

2012-09-12 20:51:26
黒田タケフミ @nisekuro_at

腹背から攻撃を受けるため、あわてて軍を引いて鄴へ還った。曹操は鄴の攻め難いことを見て、袁尚本軍を袁譚と挟みうち出来ないのでは意味がないと、それ以上の軍事行動を止め、袁譚との間に婚儀を結んで外交的保証を互いに計るに留めて軍を引き還した。という次第。

2012-09-12 20:51:38
黒田タケフミ @nisekuro_at

そして三度目の攻略で漸う鄴攻略が成るわけだが。鄴はそれほどに固いのか?名将審配が守ってんだから固いだろ!って、いやそれは後になって今の俺達が言うのだから言えることで、当時の鄴の評価はどうなのよ。

2012-09-12 20:51:48
黒田タケフミ @nisekuro_at

そう。ぶっちゃけ、鄴は固い。マミさんのお豆腐メンタルだと攻略不可能なぐらい固い!あれ?説得力皆無?まあ冗談はともかく。曹操が利を失ったら即免官縛りを受けてた?ってのを割り引いても、攻略の目処が立たないから軍を引いたのは確かだろう。

2012-09-12 20:52:00
黒田タケフミ @nisekuro_at

で、どう固いのかを解説する。はい、概略図、どんっ!http://t.co/pt7pZWPg

2012-09-12 20:52:08
黒田タケフミ @nisekuro_at

ちなみに概略図は飽くまで概略図であって、色々な資料を抱き合わせでこんなもんかって描いたものなので色々位置が可笑しいとかあるかも知らん。細けぇことはいいんだよ!でも突込みもヨロ。

2012-09-12 20:52:19
黒田タケフミ @nisekuro_at

そう。鄴は背後に戦国時代の趙国長城遺構を擁す、邯鄲を中心とする非常に広範囲の後方支援エリアにより鉄壁の支援体制を受けた大城だった。信長の時代の、毛利氏の全面バックアップを受けてた最盛期の本願寺石山城(後の大阪城になるあたり)みたいなもんだと思うのがいい。

2012-09-12 20:52:41
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