白山事件 および 安元の大火のことなど

白山事件、安元の大火に関する長ったらしい独り言をまとめました。
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平 資盛 @sukemori_t

そんなわけで、尺の都合で飛ばされてしまった出来事をつらつらと。

2012-10-22 00:54:42
平 資盛 @sukemori_t

安元二年 *この年の10月、伊豆国伊東荘の所領争いで、曽我兄弟の父、河津祐泰(伊東祐親 嫡男)が工藤祐経の郎党に射殺される。 ・12/5 池殿、権中納言に昇進。信西殿の子、藤原成範殿も権中納言に(桜町中納言)。 ・参議に蔵人頭 藤原実宗、長方殿が昇進したため、蔵人頭に空きが!

2012-10-22 01:04:53
平 資盛 @sukemori_t

蔵人頭は、文官、武官から一人ずつ選ばれますが、この時知盛叔父上を差し置いて蔵人頭に昇されたのは、右近衛中将藤原光能殿。 後白河法皇ご寵愛の近臣として知られ、神護寺三像の一つがこの光能殿の肖像画といわれています(が、義詮ちゃん説もw)

2012-10-22 01:08:22
平 資盛 @sukemori_t

安元二年 ・7/17 六条上皇崩御(13) ・9/19九条院呈子崩御 ・9/28藤原俊成卿出家。法名釈阿 ・10/23後白河院第9皇子 道法法親王、冷泉隆房殿に連れられ参内。29日、高倉帝の猶子に ・11/2後白河院第十皇子承仁法親王、時忠大叔父上に連れられ参内。高倉帝猶子に

2012-10-22 00:59:48
平 資盛 @sukemori_t

安元三年正月二十四日内大臣藤原師長殿(頼長殿嫡子)が兼任していた左大将を辞任。右大将の父上が左大将に、右大将には虎視眈々と狙っていた成親殿ではなく、宗盛叔父上が任じられ、兄弟で左右近衛大将を務めるという栄えあることに。

2012-10-21 21:56:06
平 資盛 @sukemori_t

宗盛叔父上は前年の建春門院様の崩御に伴い、権中納言を辞していらっしゃいましたが、この日権中納言に還任、そして右大将を兼ねることになりました。 【玉葉 二十五日条】「右大将を任ぜんが為、卒爾に辞状を献るべきの由をおおせらる」これによれば、後白河法皇が師長殿の辞任を急がせたことに。

2012-10-21 21:58:28
平 資盛 @sukemori_t

成親殿が、右大将の座を奪われたことに不満をいだいたとされる説と異なってきます。

2012-10-21 21:59:12
平 資盛 @sukemori_t

ちなみに、内大臣師長殿は安元三年3月5日に従一位太政大臣となります。これは、左大臣藤原経宗殿、右大臣九条兼実殿を飛び越しての昇進ですが、左大臣を飛び越したのは、父、左府頼長殿の前例を忌んでとされています。

2012-10-21 22:01:34
平 資盛 @sukemori_t

ついでに申し上げますと、同日、父上は内大臣になり、こののち小松内府、小松内大臣と呼ばれることになります。

2012-10-21 22:02:17
平 資盛 @sukemori_t

内大臣となられ、兄上に無紋の太刀を(ノД`)シクシク

2012-10-21 23:05:22
平 資盛 @sukemori_t

あ、父上は左近衛大将と内大臣兼任です。

2012-10-21 23:04:32
平 資盛 @sukemori_t

父上と宗盛叔父上が左近衛、右近衛大将に並び立たれた時のことを右京たんが歌に詠んでいます。

2012-10-21 23:08:34
平 資盛 @sukemori_t

『おなじおとどの、大臣の大将にてよろこび申しし給ひしに、おとうとの右大将、御共し給へりし、いきほひゆゆしく見えしかば』 いとどしく さきそふ花の こずゑかな 三笠のやまに 枝をつらねて (建礼門院右京大夫集 57)

2012-10-21 23:11:00
平 資盛 @sukemori_t

おなじおとどの、というのは、その前の歌が父上の菊合わせに招かれた人の代作の歌だからですw

2012-10-21 23:11:50
平 資盛 @sukemori_t

父上が内大臣兼左近衛大将となられ、御礼言上のための拝賀に右大将宗盛叔父上がお供されたときのまばゆいばかりのご威光を詠んだ歌。 三笠というのは、帝の御蓋としてお仕えする近衛の大将、中将、少将を指します。

2012-10-21 23:15:05
平 資盛 @sukemori_t

同日、建春門院様により政界から遠ざけられていた徳大寺大納言実定殿(太皇太后多子様の兄)が12年ぶりに大納言に還任。

2012-10-21 22:03:50
平 資盛 @sukemori_t

安元三年 4月28日 【安元の大火 太郎焼亡】 亥の刻、樋口富小路より出火。勧学院、大極殿、八省院ほか、都の1/3を焼亡。 帝は藤原邦綱殿の正親町邸に行幸されました。このあたりのことはKCさんがお詳しいですw

2012-10-22 01:11:10
平 資盛 @sukemori_t

安元大火で罹災した公卿の邸宅「玉葉」、「清獬眼抄」より 関白藤原基房邸(錦小路南、大宮東) 内大臣平重盛邸(五条坊門万里小路西角/造作中で未入居) 源大納言定房邸(西京/当時ここに居住せず/清獬眼抄には記録なし) 二位大納言藤原実定邸(三条南、西洞院西/女婿 実国同宿)

2012-10-22 01:23:38
平 資盛 @sukemori_t

*権大納言中宮大夫藤原隆季邸(四条北・大宮西?) (清獬眼抄は四条北、大宮東町とし、大宮西に住む女婿二位左中将兼房と同宿とあるが、四条北、大宮東町は基房邸と重なる。山槐記には、隆季邸は大宮西、四条北、四条面とあるので、大宮西が正しいかと) ・

2012-10-22 01:29:10
平 資盛 @sukemori_t

*藤大納言邦綱邸(二条油小路) 玉葉→藤大納言「三条油小路(略)五条大納言(二条油小路、直廬也)」 清獬眼抄→「大納言邦綱卿(綾小路南、西洞院西角)」 ・この3つは同じ邸でいずれも所有者は邦綱殿と思われます。

2012-10-22 01:36:02
平 資盛 @sukemori_t

直廬は内裏内、もしくは隣接地に与えられますが、当時里内裏として多く用いられた閑院の直廬としては位置的に二条油小路かと思われます。 閑院はこの時罹災せず、28日避難された高倉帝も翌日には閑院に還御されています。

2012-10-22 01:37:31
平 資盛 @sukemori_t

*権中納言藤原資長邸(綾小路北、西洞院西) *検非違使別当藤原忠親邸(三条北、堀川西角) *源中納言雅頼邸(三条南猪熊東角) *権中納言藤原実綱邸(五条南、大宮西角/玉葉に記載なし) *堀川宰相邸(綾小路堀川/参議藤原頼定邸と思われます/清獬眼抄に記載なし)

2012-10-22 01:41:00
平 資盛 @sukemori_t

*正三位大宮権大夫藤原俊盛邸(四条南、朱雀西角/居住せず) 左大弁三位藤原俊経邸(六角南、大宮西角) ▽清獬眼抄は罹災した公卿の館を13,玉葉は14としています。平家物語は覚一本、延慶本ともに16箇所となっています。

2012-10-22 01:43:32
平 資盛 @sukemori_t

叡山の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀と大事件が続き、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐れるようになりました。 讃岐院の院号を崇徳院に改め、頼長殿には正一位、太政大臣が追贈。 そして、安元を治承に改元。安元も、疱瘡が流行したために「民害を除き元元を安んず」から取られたのですが。

2012-10-22 01:51:40
平 資盛 @sukemori_t

太郎焼亡では、死者数千、民家二万余戸が消失。牛馬の焼けたのは数知れずと言われます。 そして、翌治承二年4月、再び大火が起こります(次郎焼亡)。

2012-10-22 01:56:49