お江戸の目立ちたがり屋 和泉屋甚助について

お江戸の目立ちたがり屋 和泉屋甚助についてまとめです。
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@miohiroko

0547[人物]和泉屋甚助。現代には大勢このような人物がいて、しかも今なら間違いなく選挙に出る--そんな人物を紹介しよう。江戸三十間堀(さんじっけんぼり)二丁目に、材木問屋和泉屋甚助という富豪がいた。この商人、とにかく自分の名前を世に知らせたい、有名になりたいと常日頃思っていた。

2012-10-27 15:45:11
@miohiroko

0548[人物]和泉屋甚助。宝暦8年(1758)、具体的な行動に出た。桜の苗木数十本を浅草寺に寄進したまではよかったが、これに自分の俳号をとって「太申桜」(たいしんざくら)と名付けた。この桜は和泉屋の主人が寄付したものだ、という売名行為に出た。いやらしい行為である。

2012-10-27 15:49:20
@miohiroko

0549[人物]和泉屋甚助。さあ、一つ行動に出ると止まらなくなるのがこのタイプの常。次々と驚きの行動をやらかした。この「太申桜」がさも由来のある木のようにするため、浄瑠璃に「太申桜」という作品を作らせた。当時、江戸にも浄瑠璃が入り、独自のお題が次々と作られたようで、それに便乗した

2012-10-27 15:53:29
@miohiroko

0550[人物]和泉屋甚助。脚本を書かせるだけならまだしも、同年冬、森田座二番目狂言に「雅名鳴響太申桜」(がめいなりひびくたいしんざくら)という一幕ものを上演させたのだからあつかましい。雅名鳴り響くとは、わが優れた名前が天下に知れ渡る、持て囃されるということ。これもあつかましい。

2012-10-27 15:57:10
@miohiroko

0551[人物]和泉屋甚助。自己顕示欲の強い者は自分自身に酔うもの。見物客たちはすぐに和泉屋のはなもちならぬ自家宣伝に嫌気がさし、上演途中で帰ってしまった。中には奇特にもそのままじっと座っている人がちらほらいたが、和泉屋がそばへ行って見てみると、その者たちは居眠りをしていた。

2012-10-27 16:01:47
@miohiroko

0552[人物]和泉屋甚助。浅草寺に寄進した桜は和泉屋の売名行為だと気付いた江戸っ子たちはたちまち反発し、くだんの桜のことをわざと「どこの馬の骨だかがこの頃植えた浅草観音境内の桜」とわざと長く言いながら、決して「太申桜」と言わないようにした。

2012-10-27 16:06:12
@miohiroko

0552[人物]和泉屋甚助。売名のための桜と分かり、寺もそれ以降あまり手入れをしなくなり、施肥を引き受けた和泉屋自身、すっかり冷めてほったらかしたために、桜の苗木はほとんど枯れてしまった。この後、しばらくはおとなしくしていたものの、なんとか有名になりたいという欲はつのる一方。

2012-10-27 18:06:39
@miohiroko

0553[人物]和泉屋甚助。いろいろ考えた末、「太申」の名前そのものを目につく所に掲げればいいということに気がついた。そして考案したのが着物。「太申」の文字を無数に描いた太申染めというので着物を作り、これを吉原巴屋の遊女、豊里に無理矢理着せて、その姿を錦絵にして売り出した。

2012-10-27 18:12:05
@miohiroko

0554[人物]和泉屋甚助。写真のない当時、錦絵はプロマイドと全く同じ意味を持ち、有名な役者や遊女、看板娘などを描いたものは飛ぶように売れた。和泉屋はこれに目をつけた。

2012-10-27 18:14:17
@miohiroko

0555[人物]和泉屋甚助。遊女をモデルとして着せた太申染めの着物。和泉屋は続いてこれを当時の名優、中村伝九郎に大金をやって舞台衣装として使ってもらった。これらが奏功し、「太申」の模様がぽつぽつと世上で流行り出した。

2012-10-27 18:19:10
@miohiroko

0556[人物]和泉屋甚助。自分の考案した模様が流行り出したのに気を良くした和泉屋。ある日、素知らぬ顔である呉服屋へ行き、「太申染めの反物を見せてもらいたい」と言った。番頭は怪訝な顔をし、「そのような染物は聞いたこともない」とそっけない返事。驚いたのは和泉屋。

2012-10-27 18:23:13
@miohiroko

0557[人物]和泉屋甚助。「太申という文字をたくさん染め抜いた模様だ。今、巷で流行っているじゃないか」と説明すると、番頭、「ああ、それは太申染めとは申しませぬ。伝九染めと申すのです」と。なんと、着物を着せた役者の名前が染物の名となった。大金を使ったのにまたも失敗。

2012-10-27 18:28:04
@miohiroko

0558[人物]和泉屋甚助。懲りない和泉屋は、次に目をつけたのは本。書物が次第に商業ベースに乗るようになり、庶民の識字率が上がるにつれて、本が大量に出版されるようになった。大量といっても、1つの書目でせいぜい数百冊発行するだけだが(ベストセラーでも数千)。

2012-10-27 19:25:56
@miohiroko

0559[人物]和泉屋甚助。自称太申染めの着物に太申桜の襦袢を着た姿の自分を描かせ、その絵を巻頭に掲げ、自分と遊女豊里との半ば作り事の関係を書かせた本を出版した。が、これが全く売れず、自費出版だったため和泉屋ひとりが大損。本屋はまったく損害なしに終わった。

2012-10-27 19:30:41
@miohiroko

0560[人物]和泉屋甚助。本はこれにとどまらない。今度は古本屋から「大学」を数百冊も買い集め(既に紹介したように藩校のちには庶民にいたるまでの教科書として使われたから、大量に出回っている)、書中に「太甲曰」(たいこういわく)とある部分を「太申曰く」(たいしんいわく)と改変した。

2012-10-27 19:34:31
@miohiroko

0561[人物]和泉屋甚助。教科書、しかも聖人の著作として崇められた古典を改変するとは大胆不敵、天をも恐れぬ行為だが、和泉屋はこの改変本「大学」をなじみの者たちに配り、「ほれ、わしの言葉が唐(から)にまで響いてこのように書物にまでなった」と自慢した。

2012-10-27 19:37:30
@miohiroko

0562[人物]和泉屋甚助。策士、策におぼれる--というほどのこともないが、なにしろ「大学」は文字の読み書きができる者はほとんどが知っている常識の書。「太甲」を「太申」に改変してあることはすぐにバレてしまった。とんでもない小細工をしたのがアダとなった。

2012-10-27 19:40:08
@miohiroko

0563[人物]和泉屋甚助。よせばいいのに、今度は1字の改変にあきたらず、書物1冊丸ごとやらかした。松下烏石(まつしたうせき。当時、細井広沢と並び称せられた書の名人。贋作を得意とした)に頼み、「太申書」と落款を入れた「千字文」(せんじもん)を出版したが、これも失敗。

2012-10-27 19:45:32
@miohiroko

0564[人物]和泉屋甚助。本がだめと悟ると、続いては大流行の俳諧に目をつけた。みずから俳諧宗匠を詐称し、楽評を開いた。作品を厳密に批評し、点をつけて切磋琢磨するというのではなく、とにかく適当に点をつけてはそれぞれに賞金をくれてやった。空くじ無しの状態。

2012-10-27 19:51:49
@miohiroko

0565[人物]和泉屋甚助。参加する側はハナからいいかげんなものとわかっており、川柳のようなものでも出せば点をつけて金がもらえる上に、飲み食いまでさせてもらえるのだから、喜んで参加した。しかし、俳諧で和泉屋の名が広まることはなかった。当たり前。

2012-10-27 19:53:51
@miohiroko

0566[人物]和泉屋甚助。なんとしても有名になるのだ、という気持ちは常人には理解の外だが、なにしろ当人は必死。執着ぶり、粘着ぶりはとどまる所を知らない。選挙区や所属政党を、世間がなんと言おうと変えてしまう議員、任期途中で辞めて知事が市長になり、国政を狙う執着ぶりも結局はこれで→

2012-10-27 19:58:02
@miohiroko

→はないかと思いたくなる。で、まだまだ和泉屋どんの売名に対する飽くなき挑戦は続く。

2012-10-27 19:58:48
@miohiroko

0567[人物]和泉屋甚助。亀戸天満宮の鬼。この塗色がだいぶはげ落ちてきたので、和泉屋が寄進の形で塗り直しを買って出た。完成品を見た人々は唖然。虎の皮のふんどしの斑紋を、なんと性懲りも無く太申染め模様にしたのだから。この執着ぶりは異様だが、この日から和泉屋は世間の物笑いに。

2012-10-27 20:06:03
@miohiroko

0568[人物]和泉屋甚助。有名になるどころか、物笑いの対象となり、普通ならもう恥じておとなしくする所だが、和泉屋はムキになった。笑われたことに対する憎悪もあろう。自分の事を棚に上げて、人々を逆恨みする。粘着する者に多いようだ。

2012-10-27 20:10:05
@miohiroko

0569[人物]和泉屋甚助。東海道の雲助たち。駕籠かきのことだが、雲助たちに銭をばら撒き、「お江戸の太申さまは桜がお好き」という唄を歌いながら駕籠をかくようにさせた。宣伝だ。そして、もう枯れて無残な姿なのに、浅草寺に寄進した桜を自慢している。「桜」への執着ぶりもひどい。

2012-10-27 20:14:37