〔AR〕その23
十一月に入り、幻想郷の紅葉は後半戦を迎えていた。木々は木枯らしの誘われるままに裸となっていく。 人里のほぼ全ての家で、火鉢が倉庫から顔を出し、往来の人々の装いも厚着に変わった。 稗田家の庭の木も鮮やかな色はまばらになり、枯れ葉の絨毯を掃除するのが使用人の日課になっていた。
2012-11-07 21:34:53そして稗田阿求は、色あせていく庭を眺めるのが最近の日課だった。 秋祭りが終わってから今日まで、阿求は家に閉じこもりがちだった。秋祭りの当日に具合が悪くなって寝込んだのが直接的な要因だが、体調不良が継続しているわけではない。
2012-11-07 21:35:13あの祭りの日以来、阿求の時間は止まったかのようだった。何をしても手につかず、食事もあまり進まない。紅茶を嗜むことも少なく、レコードを聴くこともないので、家の者たちは一様に心配していた。
2012-11-07 21:35:32「ごきげんよう」 「――お久しぶりです」 ある昼下がり、やはり縁側で庭を眺めていた阿求の元に、紫が現れた。 「あまり顔色がよくないわね」 「ちょっと、考えごとをしていまして」 「古明地さとりのこと?」
2012-11-07 21:36:17阿求ははっと紫を見る。紫は、扇子で口元を隠し、表情が窺えない。 「彼女、やはり祭りに来ていたのね」 「やはり、といいますと」 「白状するとね、古明地さとりが『Surplus R』だということ、薄々感づいていたのよ。仕事柄、端末使用記録で推測がついてしまってね」
2012-11-07 21:38:24「――そうだったんですか」 「言った方がよかったかしら?」 「いえ、その点について、紫様が負う責任はないでしょう。むしろ、言ってしまったら、それはそれで面倒なことになったのでは」 紫はパチンと扇子を閉じて、苦笑を見せた。
2012-11-07 21:40:31「元気はないのに物わかりだけはいいわね、貴方は。ええ、そう、立場上、匂わせるようなことも言えなくてね。けれども、それはそれ、ね」 言外で、紫は「古明地さとりと稗田阿求が出会うのを止めるべきだったか」と聞いたのだった。
2012-11-07 21:40:56そう推測した阿求は、おそらくこの妖怪が、秋祭りに阿求が体験したことも把握済みだろうことを確信した。 「では、私の疑問に答えていただけるでしょうか?」 「なんなりと」
2012-11-07 21:41:24「気分が落ち着いてからずっと考えていたんです。よくよく思い返せば、古明地さとりは、私を見て恐れていたような様子でした。それが、ずっと引っかかっているんです」 阿求は、家に閉じこもりながら、あの時のさとりのただならぬ様子を、記憶を頼りに分析していた。
2012-11-07 21:43:04当時の阿求は、さとりの異様さに恐怖を抱いた。が、改めて考えると、むしろさとりの方が恐怖に顔を歪ませていたような気がしてならないのだ。 「ああ、なるほど」 紫は閉じた扇子で手袋に包まれた手のひらを叩いて、すぐに答えた。 「それは、貴方が御阿礼の子だからですわ」
2012-11-07 21:43:36「――ちょっと待ってください。外見はごく普通の人間である私を見て、誰が恐れを抱くというのでしょう。時々寺子屋の初等部の子供たちにさえ舐められることのある私ですよ?」 「頭の回転が鈍いわね。糖分かカフェインが足りていないのではなくて?」
2012-11-07 21:44:26突如、正座する阿求の膝元に、淹れ立ての紅茶のティーカップがソーサーごと出現した。慌てる阿求を後目に、紫は同様のティーカップに口を付ける。 「おごりよ。まずは飲みなさい」 「いただきます――」
2012-11-07 21:44:49仕方なしに、阿求はカップに口を付けた。かなり上等な茶葉らしく、非常に口当たりが良いと共に、芳醇な甘みが阿求の中に染み渡った。少し、気分が晴れやかになった。 「さて、飲みながらでいいから聞きなさい。覚り妖怪が『見る』といったとき、それは光を捉えることだけでないのは、おわかり?」
2012-11-07 21:45:27「そう、何を読みとり、そこから何を受け取るか。答えを言ってしまうと、古明地さとりは、人間の起きている部分の記憶しか見ることはできない。それはその人間の記憶の一部にすぎず、そこにとどまっていないものは、心の奥底に沈んでいるか、消え失せている――つまり、忘れているということ」
2012-11-07 21:46:45「しかし、顕在意識の記憶情報だけでも、それは十分に量が多いもの。仮に常人が覚り妖怪の視点を持ってしまったら、良くて発狂、悪くて脳神経を自壊させてしまうでしょうね。覚り妖怪は、それだけの情報量に耐えられるだけの体のつくりをしているはず」
2012-11-07 21:47:31「ですが、それとて限度がある――そうですね?」 「もうわかっているようね。御阿礼の子。忘れることのできぬサヴァン」 紫は唇を真一文字に引き締めて、阿求の瞳を見た。
2012-11-07 21:47:53「さとりから見た貴方は、まさしく今言った、覚り妖怪の視点を持った常人そのものだったのではないかしら。生まれたときから体験する全てを記憶に収めている貴方の顕在意識の情報量は、想像を絶する。私も、貴方の心だけは絶対に覗きたくないわ」
2012-11-07 21:48:17「いつも人の心を垣間見ているようなお方が、妙なことをおっしゃる」 普段なら笑っておどけるところだったが、阿求は真剣に紫を見返した。 「調子が戻ってきたようね。疑問はこれで解消した?」 「――はい、あの日、彼女は私を恐れ、その姿を見た私は彼女を恐れた。そういうことだったんですね」
2012-11-07 21:49:02言葉にしてみるとなんと味気ない、そして無情な話だ。だが、今日紫がこなければ、阿求はそこに辿り着けはしなかっただろう。 そして、その先のことにも。 紫は、彼女にしては非常にわかりやすく、あからさまにせっついた。 「疑問が解消して、全ては終わると?」 「そんなことはありません」
2012-11-07 21:50:07阿求はティーカップとソーサーを床に置いて、強く拳を握り締めた。 「私は取り返しのつかないことをしてしまいました。ですが、それを贖う術がわからないのです」 「どうして?」
2012-11-07 21:50:32「例えばです。今紫様に頼み込んで、地霊殿に直通で行けるとしましょう。それで、さとりさんにどういう顔をして会えば良いというのですか?」 会うだけで、相手を傷つけてしまう。それがわかっていて、なお面会する勇気は、今の阿求にはない。
2012-11-07 21:51:01