130118_征韓論、侵略思想について考える。岩上安身ツイートまとめ

まとめました。 関連書籍 高橋哲哉『靖国問題』 http://amzn.to/Sc3IVv 続きを読む
2
岩上安身 @iwakamiyasumi

自民党の圧勝から一ヶ月。改憲と、米国の軍事下請け化を意味する集団的自衛権の行使容認が、日中間の緊張の高まりとあいまって、現実味を帯びてきたので、憲法論議だけでなく、戦前戦中の国体についてもあれこれ読み漁ってる。以下、備忘録のための読書メモ。

2013-01-18 01:29:36
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き。先日インタビューした哲学者の高橋哲哉東大教授には「靖国問題」という著書がある。高橋氏が指摘するとおり、靖国神社は戦死者の御霊を祀ることで死を恐れぬ兵士を徴兵制(つまりコストはただで)によって調達するための装置だった。

2013-01-18 01:37:00
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き3 靖国神社は、ありのままに見ると、神社としてはかなり「異様」である。遊就館は軍事博物館に近い。無神論の国だった旧ソ連にも無名兵士の墓はあり、軍事博物館も各国にあるが、それらが一緒になっている例はあまり思いつかない。宗教と軍事が一体になった祭軍一致の国家の象徴である。

2013-01-18 01:50:00
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き4。高橋哲哉教授が帯に推薦文を寄せ、その中で「靖国博士」と呼んでいるのが辻子実氏。辻子氏の「靖国の闇にようこそ〜靖国神社・遊就館非公式ガイドブック」は、靖国神社の細部まで、どのように成り立っているか、詳しく紹介されている。

2013-01-18 01:57:00
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き5 僕の父も南方に出征しているが、もし戦死していたら、この靖国神社に参拝に来なければ父に会えない、ことにされていたのか、と考え、いや、父が戦死していたらそもそも自分は生まれていない、という事実に気づく。母も空襲にあっている。親達の体験談を聞くと間一髪だったのだと肝を冷やす。

2013-01-18 02:00:32
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き6 徹底した宗教的軍事国家、神聖大日本帝国というべきファシズム国家の精神的装置を作り上げたのは、実は長州閥の面々だった。非武士階級による軍隊・奇兵隊を創始した高杉晋作が、奇兵隊の戦死者を祀る招魂社を作らせたのが始まり。境内に立つ大村益次郎も元長州藩士。

2013-01-18 02:12:54
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き7 「靖国の闇にようこそ」には、「靖国神社の祭神は、はじめは戊辰戦争での「官軍」の戦死者だけでしたが、その後、長州藩が朝敵・賊軍として京都御所を武力攻撃した「禁門の変」での長州藩戦死者を合祀するなど、当時の陸軍を掌握していた長州閥の影響を反映した合祀が行われました」とあり…

2013-01-18 02:23:50
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き8 「…ですから会津藩家老を先祖にもつ右翼の大物田中清玄は、「長州藩の守り神にすぎないもの」と切り捨ています」と続く。学生運動の最高揚期に新左翼に活動資金を提供して旧左翼との分断を図った田中清玄氏の発言。ちなみに生前の田中清玄氏を一度間近にお見かけしたことがある。

2013-01-18 02:31:54
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き9 廃刀令、廃藩置県で武士という身分としての職業軍人階級を解体し、徴兵制によって国民皆兵制を敷き、国軍を創設、同時に靖国神社を創建した事業は、高杉、大村亡き後、その後輩に相当する長州出身の山県有朋に託される。

2013-01-18 02:45:45
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き9 プロイセンをモデルに行われた明治国家の制度設計は、山県有朋のイニシアティブによるところが大である。欽定憲法発布に際しても、立憲君主制といいながら、内閣の権限を弱め、天皇に大権を集中させ、その実、自身が統帥権を握る仕組みを織り込んだ。山県亡き後の混乱と暴走は必然だった。

2013-01-18 02:56:51
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き10 明治以来、最多数の総理を輩出してきた長州人脈の最後尾に位置する安倍晋三氏が、復古的な改憲案を掲げて総理になったからには、同郷の山県有朋の事績を辿る必要もありと、山県有朋に関する本を何冊か渉猟。

2013-01-18 03:13:27
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き10 異色は、村島明男著「中江兆民と山県有朋」。小説仕立てなのだが、著者の想像上の中江と山県の問答が唐突に出てきたりして、奇書として楽しめる一冊。同書には詳細は出て来ないが、山県有朋を含め長州の維新の志士らに多大な影響を与えたのが吉田松陰であることは誰でも知っている。

2013-01-18 03:16:37
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き11 吉田松陰が、尊皇攘夷だけでなく征韓論を唱えていたことは比較的知られているが、実は松陰だけでなく、当時の革命エリートはあまねく征韓論という「侵略思想」を共有していた。明治6年の征韓論論争とそれに続く政変も、侵略に賛成か反対かで争っていたのではなく、時期を争っていたのだ。

2013-01-18 04:14:18
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き。今日の目からは夜郎自大としか思えない征韓論に、維新の志士が悉くかぶれていたのは、吉田松陰の影響がかくまで大きなものだったからか、といえばそうではない。長州藩士に与えた松陰の影響は大きかったに違いないが、薩摩もいる、土肥もいる。佐幕にも征韓論者はいた。

2013-01-18 04:25:22
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き12 吉田松陰に決定的影響を与えたのは水戸史学である。とりわけ会沢正志斎の影響は松陰のみでなく、幕末期の尊皇攘夷思想形成に多大な影響を与えた。彼の著した「新論」は、隠れたベストセラーであり、バイブルであった。

2013-01-18 04:36:37
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き13 国体観念を唱えたのも、この会沢正志斎である。脱線するが、ここ数日の間に手にとった本の一冊が、ディヴィッドグッドマンと宮澤正典共著の「ユダヤ人陰謀説」という500頁近い大著で、その中に日本初の反ユダヤ主義者として会沢正志斎が紹介されていたのには驚いた。

2013-01-18 05:05:49
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き。日本が対外侵略を企てるのは、帝国主義列強のアジア侵略が本格化してからのことで、自国の防衛のためにやむなく朝鮮半島に出兵したなどとよく言われるが、それはかなり怪しい。アヘン戦争は1840年。それをさかのぼること15年前の1825年に「新論」は書かれていた。

2013-01-18 05:13:10
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き15 宗教を国家のもとに統一する国家神道の創設を、会沢正志斎はすでに唱えていた。彼の「新論」の熱心な読者の一人に福井藩主の松平春嶽がいる。春嶽も対外侵略を唱えていた。

2013-01-18 06:34:27
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き16 国学の平田篤胤門下の佐藤信淵は、「混同秘策」という書物で、朝鮮どころか、満州、支那を征服し、世界を征服すべしと説いていた。「新論」の出る2年前、1823年のことだ。彼は狂人ではない。経済学や農学、医学も修めたマルチな学者である。

2013-01-18 06:39:17
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き17 佐藤信淵は、江戸を「東京」と号すべしと唱えていた人物。東京の名付け親でもある。正気の知的エリートたちが、当たり前のように征韓論、朝鮮侵略を唱えていた。例は他にもあまたある。日本の朝鮮半島侵略欲求は、欧米列強のせいばかりにはできない。

2013-01-18 06:44:49
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き18 確実に言えることは「記紀」の影響である。たしかに、古事記、日本書紀を読む限り、古代日本(地勢的には古代西日本)は朝鮮半島との濃厚で謎めいた関わり抜きには語れない。

2013-01-18 06:53:18
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き19 日本のアイデンティティを求めようとすれば、記紀万葉にたどり着くのは自然である。そこには上古日本が朝鮮半島を征服し植民地まで持っていたかのような記述がある。戦後日本史学会では、神話・捏造の話として退けられているが、神功皇后の「三韓征伐」の物語は大変な影響があった。

2013-01-18 07:00:22
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き20 日本の再出発となったのは663年の白村江の戦いでの大敗戦。まごうかたなき史実であり、その後の天武持統朝において、日本という国号と日本国意識が成立した。記紀編纂もこの時代だ。ところが神功皇后が紀元2〜3世紀に三韓征伐したという記述は、今日では史実とは扱われない。

2013-01-18 07:11:58
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き21。ところが、今では学校で教えられず、メディアもほとんど取り上げない神宮皇后は、幕末明治期にはスーパースターで、明治に最初に発行された紙幣は、何と神功皇后の肖像入りだった。洋装の夫人像なのが何ともおかしいのだが、中塚明著の「日本と韓国・朝鮮の歴史」にお札の写真が出ている。

2013-01-18 07:17:26
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き21 白村江の海戦は、滅亡しかかった百済を助けるために大艦隊を組んで遠征し、大敗北を喫したのである。無関係ならば、高みの見物を決め込んでいたらよかっただろう。だが日本は国運が傾くほどの大兵力を投入し、敗れては百済の王族はじめ棄民を国内に引き受けた。普通に考えたらありえない。

2013-01-18 07:24:46