芦田宏直先生@jai_anの「結局の私の結論。男性は女性を大切にすべきだということです。これだけが言いたい。」
ところで、(先に触れた)女性の性的な二重の移行性(母親→父親、クリトリス→ヴァギナ)は、基本的には、女性は、男性よりも愛すべき異性像が広いことを意味している。
2013-01-24 00:52:39男性のように異性像が狭くはない。異性原型が二重の移行によって不安定で曖昧化されている分、“男性次第”の要素が相対的に大きくなっている。
2013-01-24 00:52:55その分、愛されることによって、選ばれた男性に「染まる」度合いが高い。それ故にこそ、男性に「遊ばれること」は、危険この上ないことになる。
2013-01-24 00:53:31交際をしながら(経験的に)、自らの異性像(=性愛)を確かめ続けている女性はいくらでもいる。男性では異性原型が強い分、そういう“試行”は、そう多くはない。
2013-01-24 00:54:57従って、女性が〈性〉として幸せになるということは危うい綱渡りだ。まずは受動の〈性〉だということ。愛されることによってしか自分の〈性〉を精神(男性像)としても肉体(ヴァギナ快感)としても引き受けることが出来ない。
2013-01-24 00:55:31しかし自分が本当に愛されているのかどうか、女性にはその基準そのものがない。しかも遊ぶのが上手な男性ほど、自分はうぶだ、純粋だということを前面化して近づいてくる場合も多い。
2013-01-24 00:56:53騙されやすいということそのものが性の原理になっているのが女性。騙されやすいということと柔軟性の像とが区別できないからだ。大概の娘の父親が、娘の「連れてくる」男性を拒否するのは、このことと関わっている。
2013-01-24 00:57:39したがって、女性が恋愛をして(「私が選んだ人」というふうに主体転換し)無事(とりあえず)結婚へ至るということが、どんなに危うい偶然の上になり立っているか、ここに思いをはせない恋愛論はありえない。
2013-01-24 01:00:01男性は(極論を言えば)「好き、好き、好き」を押し通せばいいだけのことなのだから。女性が「好き、好き、好き」と押せば、男性は腰を引くばかりだ。
2013-01-24 01:00:28つまり、恋愛は、n個の主体(=個人の自由)による意志と能力によってなされるものではない。恋愛は、特に女性にとって〈出会い〉でしかない。
2013-01-24 01:01:08〈恋愛〉ほど反近代的なものはない。だから主体性が強化されればされるほど、女性は恋愛から疎外される。少子化現象も近代化のなれの果てかも知れない。男女交流が新しいメディアによって活発化すればするほど、むしろ不遇な出会いは増えている。
2013-01-24 01:01:57もしもフェミニズムが存在しうるとすれば、こういった(あれこれの)意志と能力をこえた〈出会い〉によってしか自分の異性像と身体とを受け入れられない女性の特有な水準を、社会、そして男性が気に留めていない場合のことだろう。
2013-01-24 01:02:39男性は努力や能力で差別されるが、その差別は「主体的な」努力や能力が根拠であることによって、不本意なものもあるにせよまだ納得できる要素が強い。
2013-01-24 01:04:14家族はその意味では〈社会〉でも〈組織〉でもない。不合理そのものだ。そもそも親(先行する原因)が存在すること自体が〈主体〉の蹉跌であるのだから、その始原である〈恋愛〉が女性の主体の蹉跌であることはそうおかしなことではない。
2013-01-24 01:05:54主体的な能力や努力の女性とは、化粧をしたり、着飾ったり、知性を身に付けたり、キャリアを持つ女性ということであるが、そんなの大きらーい、という男性はいくらでもいる。
2013-01-24 01:08:15