- ueda_shinji
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@mnea2b 「ある句がネオテニー、および女性性を帯びている場合、それにふさわしい作者名がついていれば読者は絶賛するが、そうでなければむしろ逆の印象を持つだろう」ですか。ぼくは葉月さんが作者でもこの句はOKと書いたつもりですけどね・・ http://t.co/cm0pNGGK
2013-01-25 15:28:27@tajimaken だから、この句を中年男性がつくったと知った場合に「え?」と感じる理解と、この句を二十代後半の女性がつくったと知ったときに「これはわざと幼く作っているのだ」という理解は、作品から離れたニュートラルな主体が存在していると考える点で、同じ立ち位置にいる。
2013-01-25 01:28:24@tajimaken この句が指し示しているのは、「ただただ幼い主体」がそこに提示されている、というそれだけ。作品と読者が化かし合う要素は何もない。
2013-01-25 01:31:00@tajimaken この句が好きか嫌いか、良いか悪いかは、その先に、私という読者個人との関係性の中にしか現れない。そして、私にとってここで提示された「幼さ」は、もうずっとむかしに終わっているものなので、なにも付け足すものはない。私にとって何も付け足すものがない、ということは、→
2013-01-25 01:37:08→私をはみだして言語化できないでいる過剰の置き場のない句(あくまでも私にっとって)ということだ。今、この、止まらない激しい咳のように、「こいつをどうにかしてくれ!」という要請が、読者側には強烈にあるんだよね。
2013-01-25 01:38:45ところで、ちょっと話題を変えるけど。たとえば、あるひとりの異性から三通の手紙が届いたとする。1通目は私をののしる手紙で、2通目は私への愛の告白、3通目は私をなぐさめる手紙、このとき通常、私はこの手紙の届いた順番によて物語をつくりあげ、その異性がどのようにして→
2013-01-25 01:50:51→3通の内容の異なる手紙をよこしたのか、を理解しようとするだろう。それを書いた主体は、一点に収斂しているものだ、と常識的に理解されているからだ。それは、ひとつの主体をあらわしている、と。→
2013-01-25 01:52:36→作品が提示する主体と、事実としての作者とを分けることで、作品の主体が指し示す作者とは異なる本当の作者自身、というような見方は、そこに「本当の」というニュートラルな作者を想定している時点で、私に届いた複数の手紙とは別の、純粋な主体という無根拠なものを根拠なく信じてしまっている。
2013-01-25 01:55:25@tajimaken その「純粋な主体」とは、テキストを通さずに見た、メタな主体。言語の外にいる主体。けれども、それは不可能である。そこで想定された「純粋な主体」は、つまりは4通目の手紙なのだ。
2013-01-25 01:57:52@mnea2b @tajimaken これは、時評のネタができたということなんだろうな、と思いました(やや、めんどくさくなりつつ)
2013-01-25 02:26:18で、句自体を容認するかしないかにネオテニーと作者名の要素が絡んでくるのでややこしい。今の社会全般にネオテニー的な音楽、芸能、美術などがかなり存在するのでその一潮流としての評価をする場合もあるし。
2013-01-25 15:48:04RTしたのわかる。俵さんの短歌の世界は女性性を十二分に意識しつつそんな自分を時に冷ややかに客観視する大人の女性かなあ。その句に七七をつけるなら(そもそも上の句の構成が違うだろうけど)「〜つぶやいておく男の腕で」という感じでは。詳しい方の意見聞きたい。
2013-01-25 20:58:29