2013.2.10 最上義光シンポジウムまとめその二 最上の乱、最上統一戦争

「最上義光の最上(現在の村山・最上地方)統一戦争」のかんたんおさらいまとめです。講師は保角里志先生です。この一連のツィートは、保角氏、および主催者のものではありません。また、mogaproの見解も入っておりますので、ご注意ください。その一はこちら。 http://togetter.com/li/455243 その三はこちら。http://togetter.com/li/456442
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最上義光プロジェクト @mogapro

前回(http://t.co/AbYKBMxW)に続き、今回は保角里志先生の「最上義光の最上(現在の村山・最上地方)統一戦争」です。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:13:08
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保角先生は東根市在住、城郭の研究がご専門です。近著『南出羽の戦国を読む』(高志書院)は最上好き、特に鮭延秀綱に興味がある方のオススメですよ。参考 http://t.co/kw5Pd6XY #義光シンポジウム

2013-02-14 20:15:52
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今回はわかりやすく少々くだけた書き方を心がけたいと思います。まずは従来、最上義光の領土拡張は従来どう描かれてきたかということです。義光の家督相続は、父義守との対立があったため、家臣氏家定直の諫言によりやっと成立したとされています。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:18:32
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(´-`).。oO(ちなみに氏家定直・守棟父子は義光の傅役であったとされていますよ)

2013-02-14 20:19:59
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家督相続時の義光は、ハードモードからの出発でした。支配が及ぶのは現在のほぼ山形市周辺のみ。石高もせいぜい数万石ということでした。出羽探題なのにどうしてこうも大変だったのでしょう?#義光シンポジウム

2013-02-14 20:21:46
最上義光プロジェクト @mogapro

波兼頼が最上に入った当時、弟や親族を周辺の城を治めるように配置しました。ところが時代がくだると、こうした親族がそれぞれ独立してしまい本家が支配できなくなってしまったのです。たとえるならば、支店長が勝手に独立して起業してしまったようなものでしょうか。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:24:07
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天正2年(1574)、義光の治世はハードからベリーハードモードとなります。父義守が義光に対して叛旗を翻し、娘婿である伊達輝宗の支援を得て最上家中が大争乱となってしまったのです。これが「最上の乱」なのです。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:25:00
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(´-`).。oO(ちなみに義姫と輝宗の婚礼はいつか諸説ありますが、だいたいこのころは結婚十年目あたりですよ)

2013-02-14 20:25:54
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さてこの「最上の乱」ですが、最近までは義守の支持と寵愛を受けた弟中野義時と、兄である義光の対立とされてきました。ドラマや小説ではこの乱の詳しい経過は省き、悪い顔をした義光が、ノリノリで弟を殺すシーンがこれでもかと描かれてきたのです。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:28:00
最上義光プロジェクト @mogapro

弟殺しと弟支持派の粛清を経て、義光は身内も誰も信じないダークヒーローとなりました……そんなシナリオには必要不可欠のイベントが、「最上の乱」であったわけですね。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:30:34
最上義光プロジェクト @mogapro

ところが最近の研究では、義時は実在せず史料にあらわれる「中野」という人物は義守であるとされるようになりました。弟殺しという義光の汚名は、研究によってやっとはらされたということになります。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:32:16
最上義光プロジェクト @mogapro

(´-`).。oO(中野義時についてはこちらも参考になりますよ。http://t.co/XsmuGZpy

2013-02-14 20:33:00
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非実在弟義時の話はここまでにしましょう。なぜ義守と義光の父子が対立したかというと、創作では義光のダークすぎる性質ということに落ち着くようです。16歳当時、蔵王温泉で山賊を殺害した伝説がある義光ですが、この正当防衛すら野蛮とみなされる場合も。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:34:04
最上義光プロジェクト @mogapro

実際のところは、史料不足でまだ解明されていません。会長と若社長の、経営方針のちがいといったところが真相に近いような気もします。戦国時代ではよくある話ですね。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:35:19
最上義光プロジェクト @mogapro

それでは実際はどういう経過であったかというと、政宗の父であり義光の義弟である伊達輝宗の日記によってたどることができます。それではまず義光方の勢力です。義光近臣、寒河江氏、上山城主里見民部(推定総数二、三千)。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:36:27
最上義光プロジェクト @mogapro

かたや義守方は義守近臣、最上国人衆(のちに義光と対立する天童氏、谷地白鳥氏氏等多数で推定総数二、三千)、当時奥羽最強であった伊達輝宗の援軍(推定一万)。義光側が圧倒的に不利です。もう四面楚歌、ほとんど無理ゲーと言えるくらい不利です。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:37:58
最上義光プロジェクト @mogapro

(´-`).。oO(小説や漫画ではまったり草食系で描かれ、政宗と比べて実力が劣っているとされることの多い輝宗さんですが、なかなかそう甘くはない傑物なのですよ)

2013-02-14 20:39:03
最上義光プロジェクト @mogapro

1/25、輝宗による上山攻撃により戦いが始まりました。不利な中で義光は夜襲、奇襲、鉄砲による射撃主体の戦闘を仕掛けます。しかし小規模な局面での勝利はあっても、兵力差はいかんともしがたいものがあります。夏になると中立派もだんだんと義守方についていきました。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:41:26
最上義光プロジェクト @mogapro

ところが8/15、山形城へ総攻撃するはずであった輝宗が突如行動を中止。9月には和睦交渉が開始され輝宗は撤退します。輝宗の義光和睦により義守は苦しい立場に置かれ、以後は龍門寺で隠棲することで決着をみます。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:43:16
最上義光プロジェクト @mogapro

(´-`).。oO(輝宗が義守からどうして義光支持に回ったかは、まだ謎のままなのです。義姫はさぞやハラハラしたことでしょうね。ちなみに義姫が輝宗と義光の間を停戦させた柏木山合戦は実在したかどうかあやしいとされています)

2013-02-14 20:43:39
最上義光プロジェクト @mogapro

こうして最上の乱は終結するものの、天童氏や白鳥氏等の国人衆は義守へ敵対を続けます。義光は国力をつけつつ、こうした国人衆を攻略する戦いを始めるのです。これを「最上統一戦争」と呼びます。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:50:33
最上義光プロジェクト @mogapro

今まで最上統一戦争は軍記の記述を中心として認識されていましたが、近年新たな史料の発見により異なった様相が見えてきています。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:51:06
最上義光プロジェクト @mogapro

天正9,10年(1581-82)年、天童・山辺氏との戦いが始まります。こうした戦いは天童・山辺両家ともに家臣の離脱等によって統一性を欠いたようです。この頃、天童氏の背後にいたのが庄内地方の大宝寺氏です。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:52:40
最上義光プロジェクト @mogapro

大宝寺義氏はこの頃より新城・清水に進攻を開始しますが、義光は伊達氏への対応によりなかなか対応できず、夫人の実家でもある大崎家に救援を依頼しています。ところがこの天正11年、近臣前森蔵人の裏切りにより義氏は討たれてしまうのでした。#義光シンポジウム

2013-02-14 20:53:41
最上義光プロジェクト @mogapro

(´-`).。oO(ちなみに清水氏の娘は、のちの義光の継室となるんですよ)

2013-02-14 20:54:44