【三国志】蜀漢末期の政治的混乱についてのあれこれ
郤正は姜維を讃える論を示した。ということは、蜀滅亡後に姜維を批判する声が上がっていたということだ。この批判者とは、一体誰なのだろうか?
2013-08-26 13:25:43陳寿は、郤正による姜維擁護の論を三国志に載せた。これは、単純に姜維を讃えるだけの意図だったのか。或いは、その裏にまた別の陳寿の意図が隠されているのか?
2013-08-26 13:28:33黄皓に左遷されたのは、陳寿にせよ羅憲にせよ譙周門下だ。姜維擁護をしていたであろう郤正も、また譙周門下だ。譙周は姜維を批判していたが、それ以上に宦官の台頭を憎んでいて、その門下も黄皓に対して阿る事を良しとしなかったのだろう。実は、陳祗死後に姜維を立てた中に、譙周もいたかもしれない
2013-08-26 13:44:56諸葛尚が「黄皓を早く斬っておけば」と言っているが、これは「黄皓を斬っておけば劉禅がそれに惑わされず、負けることはなかった」という意味ではないだろう。むしろ、黄皓という宦官に阿ったことで政権内部の対立を招き、趙統らの近衛戦力を自ら放棄した状態で戦わざるを得なかったことを言っている
2013-08-26 20:12:39樊建は黄皓と親しくしなかったと言うが、彼は侍中守尚書令である。本来なら、積極的に黄皓を抑えるべき位置にいた。樊建については、黄皓と関わりを持たなかった事こそが罪である。諸葛瞻、董厥、樊建らは、黄皓にも恐れられていたであろう姜維と協力して黄皓を押さえつけるべきだった
2013-08-27 03:51:26実は、陳寿が姜維の主簿だった期間って、考えてるより長いんじゃなかろうか?具体的には、延熙十七年から延熙二十年まで。延熙十七年の戦役と延熙二十年の戦役は、帝紀に日付はないが、細かい描写が伴う。帝紀に日付がないのは、もとより帝紀にこの戦役が載ってないからだろう。
2013-08-27 09:26:16延熙十七年の戦役は、姜維伝こそ簡潔だが、張嶷伝に張嶷の活躍を割りと細かく載せており、同じく陳寿の編纂した益部耆旧伝において、この時の張嶷について情感たっぷりに描写している。恐らく陳寿も共に遠征に行ったのだろう
2013-08-27 09:33:53延熙二十年の戦役は、楊戯伝の内容を考えると、陳寿も宴席に同席し、楊戯が姜維を馬鹿にする様をはっきり見ていたのではないだろうか?また、寛大に振る舞う姜維の内心を陳寿が知っていたことは、陳寿辺りには楊戯に対する不満を漏らしていたのかもしれない。
2013-08-27 09:37:49姜維を嫌ってた奴なんて、それこそ楊戯くらいで、譙周だって北伐を批判はしても、姜維そのものを批判したことはない。廖化は能力批判をしてたけど
2013-08-27 09:42:52@Rieg__Goh 口を開いて公然と批判しては蒋琬の面目が潰れるとして黙っていた楊戯が、姜維に対しては皆の前でボロクソに言うわけですからね。俺は、蒋琬の件で楊戯を免職にしようとしたのが姜維なんじゃないかと思ってます。そんで怨みを買ったと
2013-08-27 10:55:45陳寿が延熙十七年から二十年まで姜維の主簿だったとすると、衛将軍主簿→大将軍主簿→後将軍主簿→大将軍主簿というめまぐるしい経歴になるな
2013-08-27 11:15:26蜀末期の構図として、 積極的姜維支持:趙統、傅僉ら軍人中心 消極的姜維支持(宦官大嫌い派):譙周ら 姜維不支持:諸葛瞻ら尚書の中心メンバー、黄皓 この状態から姜維が巻き返すには、諸葛瞻らをなびかせるしかないな
2013-08-27 20:25:52黄皓を高く評価するのは、俺には無理だな。どうやったって無理矢理な理屈になる。精々、皇帝に取り入る術を評価できるくらいだ。まあ、宦官には最も必要な要素かもしれないが
2013-08-29 02:42:06陳祗が居た間、黄皓の意思は全くと言っていいほど出てこない。陳祗に抑えられていたというのはあるだろうが、それ以上に黄皓に政治的な信条が無かったがゆえだろう。黄皓が目立つのは、陳祗死後、更に諸葛瞻らの台頭以降だ。俺は、黄皓台頭は諸葛瞻らの問題であると思う
2013-08-29 03:30:54黄皓については、「黄皓は使い走りに過ぎない」という劉禅の言葉に性質が表れている。自分の地位や栄華を保証するなら、誰とでも付くし、自身の意思はないのだ。ゆえに、黄皓が皇帝に取り入っている状況があったにせよ、それを利用した側によって、蜀末期のあの分裂は引き起こされたと言える。
2013-08-29 03:36:26諸葛瞻が姜維を排除しようとした理由は分からない。老人に退場願いたかったのか?或いは北伐を制止したかったのか?その意思は、黄皓に利用された。黄皓は黄皓で、姜維が自分を排除したがっているということを感じていただろうし、黄皓にも姜維を排除する意思があっただろう
2013-08-29 03:39:38姜維排除という点で、黄皓と諸葛瞻の意思が一致し、更に皇帝の寵愛による黄皓の優越が、蜀末期の成都の権力構造を決定した。黄皓は触媒であり、原因ではない。また、陳祗死後の政権が、継続して黄皓と協力する意思を持てば、あのような分裂は起こらなかっただろう
2013-08-29 03:43:06蜀末期の政治的分裂の原因は以下のようになる。 1.黄皓排除に姜維が動いたことで、黄皓が姜維排除の意思を持ったこと 2.諸葛瞻が黄皓に同調して、姜維排除に動いたこと 3.諸葛瞻らは、皇帝に取り入る黄皓より発言力が小さかったこと
2013-08-29 03:47:18