諸葛亮死後の蜀漢の政治の流れについて
李福は姜維の前任として前監軍領司馬だった。彼は李豊に代わって督江州となった人物。そこを買われたのだろう。政治的にも高い位置を占め、諸葛亮死後は尚書僕射にもなっていた。当初は李福が蒋琬の後を襲う予定だったに違いない。
2011-11-14 01:16:38北伐を再開するに当たっての、蒋琬の最初の仕事は、バラバラになった諸葛亮軍の再編制。いかにそれを掌握していくかが、独裁者蒋琬の腕の見せ所だったはず
2011-11-14 01:21:25@Jominian 軍事経験が乏しい人物が全軍の指揮権を掌握することへの反発が強かったのかも知れないですね。軍功を立てるためではなくて、独裁権力を保持するためだけに軍事力を手元に集中する下心があると疑われかねないです
2011-11-14 01:24:03@sweets_street 楊戯や楊敏との逸話も、反発を抑え込む蒋琬の努力を示します。しかし、魏への攻勢を再開せよという詔勅が出てますからね。蒋琬としては、どう疑われようと軍隊を掌握しなければなりません。彼が動き出したのは詔勅のあった延熙元年ですが、そこからの動きは早いですね。
2011-11-14 01:29:40@Jominian 外征を名目に軍権を集中して求心力を高めるというのはありふれた政治手法なので、蔣琬が詔勅が出るようにはたらきかけた面もあるのではないかと思います。蔣琬失脚を目論む勢力が荊州侵攻中止の勅旨を引き出したのも、蔣琬が軍権を集中する口実をなくすためでしょう
2011-11-14 01:35:46@sweets_street それはあるでしょうね。諸葛亮死後、丸三年近く何も無かったのに、突然の再開ですからね。蒋琬失脚の件も、色々裏は考えられそうです。基本的には、蒋琬+姜維対費禕+馬忠という構図だと思いますが。
2011-11-14 01:43:02@Jominian 諸葛亮の志が北伐にあったことは明らかですが、北伐が彼への権力集中を促した面もあります。李邈の意見もそういう面を表しています。北伐の指揮官=最高権力者という図式なら、失脚させるには北伐をやめさせて、軍権を掌握する名目を奪えばいいんです
2011-11-14 01:48:47@sweets_street 蜀の歴史はその繰り返しですね。諸葛亮は幸いにも支持を保ったまま最期を迎えましたが、蒋琬も姜維も、その失脚を狙う人々に地位を脅かされました。国家戦略を達成する為には独裁者が必要なのに、当然ながら独裁は非常な反発を受ける。
2011-11-14 01:52:52@Jominian そのようなことを理解していない俗物も多いでしょうが、国家戦略を達成する必要性は認識していた上で、それが蔣琬や姜維の手で行われるのは嫌だと言う人も多いでしょうね。諸葛亮の薫陶を受けた蜀漢首脳部には、皆思い描いている自分なりの理想の北伐があるでしょうから
2011-11-14 01:58:01@Jominian 理念で動いている組織はそんなもんですよ。理念を提唱したカリスマが消えると、みんなが「俺が一番理念を正しく理解している」と主張して収拾つかなくなるんです
2011-11-14 02:03:41@sweets_street 人間個人としては、姜維の方がアレクサンドロス大王に近いのですから、個人的には姜維のディアドコイ戦争が見たかったですね
2011-11-14 02:08:24@Jominian アレクサンドロスのディアドコイが派手になったのは、アレクサンドロスの帝国の規模が大きかったために、後継者たる将軍や総督の争いのスケールも大きくなったからだと思います。蜀の将軍や太守なら、水面下の暗闘で権力者の首が何回か飛んでおしまいでしょう
2011-11-14 02:15:29@sweets_street そうですね。ですので、姜維がまかり間違って魏を打倒し、大帝国を築いていたら、の話になるでしょうね。姜維は部下に何も教えないので、姜維を見て学んだ人々の争いになります。ワクワクします。大本命は白虎文きゅんですね
2011-11-14 02:18:28@Jominian 同世代の盟友は姜維にはいなさそうなので、姜伯約第一の弟子を自認する青年将校たちが、フランス革命期のジロンドやジャコバンのような純粋で血みどろな抗争を繰り広げるんでしょうね
2011-11-14 02:22:00@sweets_street 姜維と同世代と言うと、恐らく杜祺とかの、諸葛亮時代に参軍だった層でしょうね。姜維が早死にしない限り、彼らでは後継者戦争は戦えないので、下の世代、すなわち白虎文や王含や蒋斌になるんでしょう。生きていたら趙広とかも
2011-11-14 02:25:15@sweets_street かつての蜀の領域に陣取る傅僉と、涼州で異民族を糾合する白虎文、中原にひしめき合うその他の将軍たち、みたいな感じですね。
2011-11-14 02:35:03個人的には、李福から姜維への移行がスムーズ過ぎる気がする。政権のNo.3が死んだのに、特に揉める事無く姜維が後を襲うって事は、当時の人々にはそれが順当だと思われてたって事か?或いは蒋エンの独断?尚書僕射を継いだのは姚チュウだが、これも誰の意向なのか?
2011-11-14 07:54:24@sweets_street 尚書僕射は姚チュウ、監軍領司馬は姜維にもともと決まっていた、と。李福は最後の花道的な人事だったという事ですかね?うーん。よく分からないですね。諸葛亮の遺言を聞いたのが李福だったのも何か関係あるような無いような。
2011-11-14 10:55:10@Jominian 年齢的な問題か健康的な問題かはわかりませんが、「先は長くない」と見られてて、諸葛亮死後の人事再編成の間隙を埋めるリリーフとして起用されたのではないかと。機能していなかった尚書機能の復活と、中軍掌握を担う人材を選ぶ困難さは容易に想像できます
2011-11-14 11:01:30実際、五丈原からの撤退の指図はともかくとして、諸葛亮が、自身の亡き後の蜀をどうすべきかを語った相手というのは、記録の上では李福しかいない。諸葛亮死後、李福がNo.3に居たのは、そこんところも理由としてあるんじゃないか?
2011-11-14 23:21:34@sweets_street そういやそうですね。最初は巴西太守。李厳が失脚すると江州都督ですからね。劉禅は何故か江州都督を諸葛亮の元に派遣した事になります。李厳・李豊親子の後を襲ったのですから、諸葛亮の信任した人物ではあったのでしょうが
2011-11-14 23:46:09