コメ帝国興亡史

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唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

やがて即位して皇帝タマゴカケゴ・ハーンとなった彼は、「ご飯は簡素なものこそ良い」という政策を打ち出し、側近フリカケと共に徹底した綱紀粛正を行った。しかしこれはかつての暗愚帝ヒヤゴ・ハーンの治世を想起させるもので、特に商人層からの強い反発を受けた。

2014-12-16 18:21:43
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

セキ・ハーンの遺児であったマツタケゴは、こうした商人層の支持を得てタマゴカケゴ・ハーンを退けて即位する。贅沢帝マツタケゴ・ハーンである。このクーデターはモチゴメの変と呼ばれ、以降を後モチゴメ朝と呼ぶ。

2014-12-16 18:24:44
ほしなみ@文フリき13 @hoshinami629

@FuhitoFumikura 仮想史書とか書いたら面白そうですね(笑)『漢書』みたいに『芸文志』とかも作って、米の種類とかチャーハンの調理方法とかも書く…とか(笑)

2014-12-16 18:25:03
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

タロイモに属した島嶼間はそれぞれ独特の文化を所有していたが、共通したのは「イモ」と総称される自然神的精霊を信仰していた点である。イモを胸に海上に漕ぎ出した彼らは航海技術に秀で貿易に勤しんだ。彼らタロイモと精霊イモの名は遠くモチゴメ朝の記録にも遺されている。>RT

2014-12-16 18:25:15
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

しかし、皇帝タマゴカケゴ・ハーンや側近フリカケが打ち出した緊縮政策は、農民たちを中心になお強い指示を受けた。こうした中で民衆の指導者となったのが、より清貧を強く唱えたネコマンマである。のちに起こる大乱の予兆はここから存在した。

2014-12-16 18:27:08
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

パスタ朝神聖コムギコ帝国の皇帝ペンネ2世がわずか10歳で夭折し、継承問題が起こる。この頃、王権を樹立していたパン王国の王子クロワッサン公は、自身の外祖父がパスタ朝最盛期の皇帝マカロニ大帝であることを理由に、神聖コムギコ帝国の王位継承権を主張した。

2014-12-16 18:31:16
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

これを受けて神聖コムギコ帝国の諸侯は、コムギコ教の庇護者としての正統性をどこに認めるかという問題に直面する。彼らはその聖地とされる場所に集い、王位継承者を定める会議を開いた。その聖地の名からこの会議を、グラコロ選帝会議と呼ぶ。

2014-12-16 18:33:50
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

グラコロ選帝会議により選出されたパン王国クロワッサン公は、パスタ朝最後の皇女リングイネと婚礼を挙げ、神聖コムギコ帝国の王統はここに統一された。以降をパン朝神聖コムギコ帝国と呼ぶ。最盛期の皇帝はピッツァ大帝

2014-12-16 18:35:50
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

ピッツァ大帝は「ピザもパンに含める」という思想を前面に打ち出し、多くの国々を神聖コムギコ帝国の支配下に入れた。こうした考え方を「大パン主義」と呼ぶ。一方、マフィン公ベーグル伯が唱えた「パンはパン」という考え方を「小パン主義」あるいは「パン原理主義」と呼ぶ。ここ試験出るぞ~

2014-12-16 18:38:26
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

やがてマフィン公は、神聖コムギコ帝国からの独立を訴えた。彼が祖となった王朝がのちのマフィンランドである。(正式名称は、マフィンおよびモーニングロール連合王国

2014-12-16 18:40:07
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

ポテト帝国国王ジャ・ガ・ターンラーは旧大陸人達の魂胆が征服にあるとは思いもせず、遂に宮殿に迫った旧大陸人使者に、ジャは室に満たした40tもの金塊を用意して迎えた。ジャは捕らえられ拷問され、国民の前で斬首。この後もポテトの名は存続したが、立ったのは傀儡王アゲータジャンガであった。

2014-12-16 18:57:30
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

なお、すすり泣く国民をなだめるためにジャは毅然として「黄金ポテト帝国永遠なれ」と称される伝説のスピーチを行った。フカシジャガ語で述べられたこのスピーチは後世、同地で巻き起こった「ポテト再興運動」の合言葉となる。

2014-12-16 19:01:16
Archer @Archer12521163

朝鮮半島ではピビンバ大王が国内統一に向けて勢力を拡大していた。その征服事業を支えたのがナムル将軍であり、当代随一の名将としてクッパ王朝を滅ぼした #コメ帝国興亡史

2014-12-16 19:01:32
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

ビビンバ王碑文は、東アジアの貴重な金石資料ですよね>RT

2014-12-16 19:03:42
謎のアサトウX @idaasatou

コメ帝国カマド派とかドナベ派とかスイハン・ジャー派とかあるんかな……

2014-12-16 19:04:43
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

モチゴメ朝の系譜なるマイ・ウルチのくびきを脱したモフフワ大公国は、やがて「全ラーイのツァーリ」を抱く「ライ・ツァーリ国」として出発する。ライ・ツァーリ国時代に著名なツァーリとして、雷帝と呼ばれたイパン4世がいる。彼は結婚したソバーキナの死をきっかけに、パラノイアを悪化させた。

2014-12-16 20:02:22
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

イパン4世死後、ライ・ツァーリ国偽ツァーリの多数出現する動乱時代となった。動乱期を制したボルシチ家がツァーリを冠するようになるが、依然として国内は政乱の気配が止まず一触即発の様相を呈した。そのボルシチ家から出たのが、シチュー大帝である。

2014-12-16 20:10:03
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

シチュー大帝は西欧に赴き、神聖コムギコ帝国・ラザニア共和国等を歴訪。我らライ・ツァーリ国の田舎くさい旧弊に落胆し、彼らの洗練された様式に魅了され、ライムギ帝国の建国を誓い、これを達成する。

2014-12-16 20:15:34
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

ツァーリの称号も古臭いと感じた彼は称をインペラートルと改めた。北海を巡ってメシコック国と戦争し得たガチの更地を人骨で埋め立てるが如く猛烈な大土木工事を推し進め、己の名を冠したサンクトシチーブルクを開いた。以後、この新都が帝都ととなり、モフフワの地はラーイ人の母なる存在となった。

2014-12-16 20:23:48
小辰みなひと@ネット租界 @37110k

身長実に213cm、西欧使節団に潜り込んだ際には偽名を使って船大工として修業を積み、帝国建国と新都建設の傍らモノづくりをこよなく愛したシチュー大帝は、みやこの港で座礁していた船を助けるうちに冬の海に腰まで浸かり得た病で死んだ。

2014-12-16 20:34:24
謎のアサトウX @idaasatou

マフィンランド東ナン会社チャパティ帝国の間で起こったナン大反乱

2014-12-16 20:43:35
腐ってもエビ@2023年コンテンポラリーミュージック破壊活動分子 @kusattemoevill

コメコパーン朝ソトハ・カリカリフであるヤイタ・ショクパーンは、第三回十字軍を撃退し、聖地ドナベガマを奪還した togetter.com/li/758384#c171…

2014-12-17 01:06:31
添嶋譲 @literaryace

一方その頃極東の島国では、善哉和尚の教えを五平とみたらし夫人が行く先々の民衆へ伝えていたのでした。 / “コメ帝国興亡史 - Togetterまとめ” htn.to/f2mGLU

2014-12-17 08:07:45
DG-Law/稲田義智 @nix_in_desertis

神聖コムギコ帝国に抵抗する異教徒が建てたリゾット朝が登場するんですねわかります。 / “コメ帝国興亡史 - Togetterまとめ” htn.to/HaVC8c

2014-12-18 02:31:46
唐橋史(史文庫~ふひとふみくら~) @FuhitoFumikura

パン朝神聖コムギコ帝国が最盛期を迎えた頃、経済的に圧迫を受けたラザニア共和国では民衆の不満が高まっていた。その民衆の代弁者として支持を受けたのが、将軍カケウドンで、やがて彼は皇帝として即位した。この時期をカケウドン帝政時代と呼ぶ。 #コメ帝国興亡史

2014-12-19 12:04:27
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