沈黙した猿#1
「お客さん、チケット、チケット」 気づけばギルダーの隣に猿面のスタッフがいた。「チケット……?」 「隣の小屋でチケットを買ってください。チケットがないと入れませんよ」 「ああ、すまない。見世物を見るなんて初めてで勝手が分からなかった。許してくれ」 21
2014-12-20 20:27:37テントから出て、隣の小屋でチケットを買う列に並ぶ。出鼻をくじかれてしまい、彼は居心地が悪くなる。だが、そんな些細な失敗が逆に彼の緊張をほぐしてくれた。彼の頭の中は、これから行われる公演のことでいっぱいだった。どんな音楽を聞くのだろうか。それが気になっていた。 22
2014-12-20 20:32:25やはり、イザベリの歌を思い出すのだろうか。踊り子の笛を聞くと、人生で最も重要な時の、忘れていた音楽を思い出すという。自分の人生を決定づけたのは、イザベリの歌声だった。年上のイザベリの歌う姿を見て、幼いギルダーは音楽家への道を歩みだした。それほど大きな存在。 23
2014-12-20 20:41:55チケットを買い、ギルダーは今度こそテントの中に入る。チケットをもぎってもらい、粗末な木箱の椅子に座る。席はスタッフによって案内された場所に座らされた。ギルダーの席は花道の近く、舞台の裏の方だった。これでは踊り子の踊りを背後から見ることになってしまうがしょうがない。 24
2014-12-20 20:47:14他の観客も次々と座っていき、やがてテントの中は超満員となった。立ち見の客もいる。頃合いを見計らって猿面のスタッフがテントの入口を閉ざした。高鳴る鼓動、膨らむ期待。花道から床を軋ませて、別の猿面の男が現れた。少し豪華な衣装を着ている。彼が座長だろうか。 25
2014-12-20 20:50:41座長らしき男は、舞台の上で一礼しただけで、再び花道を歩いてテントの奥へと消えてしまった。黙ったまま、一言も話さなかった。観客たちは不安になってザワザワと話し始める。だが、その話声もすぐ止まった。花道から、踊り子が現れたのだ。彼女は紫の紐のような衣装だけを身につけている。 26
2014-12-20 21:01:14踊り子はゆっくりと、床を軋ませることなく歩いてくる。まるで無音映画を見ているようだ。身体には以前見たような鈴は下げられておらず、代わりに布の装飾が増えていた。肩で切りそろえられた紫の髪が揺れる。彼女はテント内部のあちこちで光るランプに照らされて幻想的に浮かび上がっていた。 27
2014-12-20 21:07:31踊り子は右手に銀色の横笛を持っていた。音もなく舞台の中央に移動した彼女は、横笛に唇をあてて、吹くような動作をしながら踊り始めた。彼女の布の装飾がひらひらと舞うが、衣擦れの音すらしなかった。舞台も全く軋まない。やはり、まるで無音映画のようだ。 28
2014-12-20 21:12:38叫び声。一人の観客が叫び始めた。連鎖的に、観客が次々と泣き、笑い、恐れ、陶酔し始める。音もなく踊る踊り子。ただ、観客だけが呻き、叫び、感動しているのだ。ギルダーは背後から彼女を見たまま、観客の中かで一人呆然としていた。どういうことだ、これはどういうことだ? 29
2014-12-20 21:27:42観客たちはそれぞれ自分の大切な音楽を幻聴しているのだろう。ただ、何故なのか。ギルダーだけが、ただ一人何の音も聞くことが出来ず、取り残されていた。そして結局何も聞こえないまま――彼女の踊りは終わった。 30
2014-12-20 21:37:59