POC第20回公演 細川俊夫/三輪眞弘 ピアノ作品集 2015年1月25日(日)
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大井浩明POC 細川俊夫、三輪眞弘 作品集から帰宅。曲が自分の好みでないのでいまいち。どちらもオケ作品は好きなんだけどなあ。近作だと細川「夢を織る」三輪は今年のサントリーサマフェスの新作「59049年カウンター」など。
2015-01-25 22:05:07前回は客入り悪かったけど、今日は満員御礼でしたね。ところで大井さんがユン・イサンをアンコールでやるつもりだったけど、それどころで無くなった、と言ってたのは何だったんだろう。まだ8時で時間も押してなかったけど。
2015-01-25 22:18:34今日の大井さんのPOC、細川さんの音楽は、本当に「書」のようだと、深く実感できた。紙を選び、筆を整え、墨を擦り、そして一気に描き上げる。レイヤーに頼らず、奥行きを出すということである。
2015-01-25 22:27:27大井浩明POCの批評は明日にして今日はとりあえず寝ます。細川・三輪の音楽におけるコンセプトの対称性を軸にして書くことは決まってるんで、とりあえず今日は酔いにまかせて眠らせてください。
2015-01-26 00:53:48細川と三輪の音楽性の対照的な図式はもう手帳に書いてあるんです。あとはそれをどう文章化した(一次元化した)形で見せられるかなんです。
2015-01-26 00:56:57ゆっくりお休み下さい!>@MOGURAmaru: 大井浩明POCの批評は明日にして今日はとりあえず寝ます。細川・三輪の音楽におけるコンセプトの対称性を軸にして書くことは決まってるんで、とりあえず今日は酔いにまかせて眠らせてください。
2015-01-26 00:58:37昨日は大井浩明のピアノで細川俊夫さんと三輪眞弘さんのピアノ曲。作風があまりにも違い、正反対というよりも交点がほぼなさそうなお二人の作品を単純に作曲年代順に。どうなることになるのやらと思っていたけれど、お互いがお互いの間奏曲になるようで、こういう配列もありだなという発見。
2015-01-26 18:45:49細川俊夫さんのピアノ曲は、ほかの楽器編成以上に「書(カリグラフィ)」的。地と線の動き・力・緊張感などでできている音楽がもっともピュアな形で現れていた。1作1作が、書でいえば「輪」「絆」「命」「愛」とかありがたいものが続いてしまうと逆に違いを感じにくくなるところが(続
2015-01-26 18:52:29承前) 個人的にはどう消化してよいものかと思う点なのだが、昨日プロではそんなことはなく。とくに、多楽章からなる組み合わせが考えられた作品、「エチュード集(全6曲)」を興味深く聴く。第2曲前半の書による点とでもいうべき表現が印象に残った。「舞い」は、細川さんのお遊び(珍しい)。
2015-01-26 18:57:08三輪眞弘さん作品は、山手線遅延のため初期作品1曲目を聴けず。三輪さん作品は個人的に、音そのものではなく、仕組みやその変化、他のジャンルとの独自の融合に興味を持ってきた。昨日はほぼ音だけによる作品で、おのずとピュアな仕組み系になるのだが、うーんどうだろう、という個人的印象。
2015-01-26 19:01:13三輪眞弘さん作品、鍵盤1音1音にセンサーを付け、演奏されている音高の出現頻度がリアルで計算され、それが画像化されて、その形状・色彩推移を楽しむ、とかいう仕組みにすると、自分的には大満足な作品になりうる予感がする。あまりの非人間的な音列に苦労する大井さんを楽しむことはできたが(笑)
2015-01-26 19:09:51今回難産でした。大井浩明POC#20の批評を書きました。なんかためらいがちに書き進んでるのが読んでみてわかるのではないかと。 d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/201…
2015-01-26 19:27:00「もぐらだってそらをとぶ」
齋藤俊夫さん(音楽学者)のブログ
http://d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/20150126
...音とは我々人間が感知するところの空気の疎密波に過ぎない。それゆえ、音には何の精神も実体もない。そして、その音を組織化した音楽もまた、「音楽側」では何の精神も実体も持ち合わせていない。音楽が存在しその精神を感じるというのは、つまるところ我々人間の側の「反応」でしかない。音楽は精神ではなくまた精神を持たない。精神をもつのは我々人間のみであり、音楽による感動とは音楽に対する反応である。
しかし、音楽の精神も、そして音楽による感動も我々人間の「反応」であるならば、音楽の創作と再現において人間の精神は介在させるべきか否かという選択肢が我々現代人の前に現れる。そして、今回の二人の作曲家において、創作・再現において音楽に精神をもって接するべきとしたのが細川であり、創作・再現において音楽に精神を持たずに接したのが三輪と言えよう。
「言えよう」などとさらっと書いてしまっているが、これは実に重大な事である。「音楽に精神を持たずに接する」などという言葉は、普通は非難としか捉えられないからである。だが、三輪の「アルゴリズムの設定のみにより自動的に(計算機的に)音が配置される」という作曲法は、「あえて音楽に精神を持たずに接する」という方法論に他ならず、そしてそれだからこそ三輪の作家としての個性も現代性もまた現れるからである。
また反対に、音楽に精神をもって接するという、ある意味伝統的な細川のアプローチも、その伝統に耐えうるか否か、また正面から伝統=精神に向かっているか、あるいはどこか逃げ場を確保した緩んだアプローチかという意味で決して安易な道ではない。
そして、三輪・細川両者の音楽からの我々人間の「聴覚的反応」こそ、それは「音楽的感動」としか呼べないものなのである。三輪のアルゴリズム作曲法という人間の精神の介在を排除した「音楽」もまた、精神的な存在である我々人間にとっては、「人間の精神の=ような=もの」を時折喚起しうるものなのであり、「何故か美しい」瞬間をもたらすものなのである。また細川のpppppくらいのごくごく小さい音量でのかそけき音楽や、複雑に線がうねりところどころクラスターがぶつかってくるような音楽もまた、精神的に豊かに人間の「中で」響くのである。
今回三輪のアルゴリズム作曲法による作品と、細川の従来の作曲法による作品を比べて聴いて面白かったのは、三輪の場合、計算機的に音が止めどなく配置されるため、音楽における「息継ぎ」がなく、逆に細川の場合は極小音量の部分でも、息が苦しくなることはあっても、「息継ぎ」はあって音楽的呼吸は続いていくということである。普段接する所の音楽というのは、おそらく人間が無意識の内に「呼吸・息継ぎ」をしながら書いて演奏しているのだが、しかしアルゴリズム作曲法において、そのような「人間的・身体的制約」は無視されるということだろう。しかし、そのような息継ぎなしの演奏をしせしめる大井浩明とはなんたる逸材か。
曲目的には三輪の2つの虹機械の完全アルゴリズム作曲法と、細川の精神的に厳しいエチュード集が対照的に心に残った。決して甘い響きを奏でることのない厳格な大井のピアノによって異質な2つの宇宙が現前せしめられた今回のPOC、また面白いものを聴かせてもらった。今回は聴衆も多く、誰もが喜んだ会となったであろう。
中身が面白すぎて、言葉にしやすそうで真逆だった今回、だと思っています。そんななかで、さすが、芯を捉えていらっしゃると思いますよ>@MOGURAmaru: 今回難産でした。大井浩明POC#20の批評を書きました。 d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/201…
2015-01-26 21:59:08一昨日、大井浩明poc#20に行ってきた。細川作品はエチュードの線的構造が高解像度で示され、興奮した。いかにも大井氏らしいストイックな演奏だな、と。あの規模の会場で、かつ至近距離で聴取できたのが至福だった。
2015-01-27 21:11:05三輪新作は、狂った傑作だった。ピアノ•メディアの右手パートを左右に割り振って、複雑にした…みたいな。あんなの絶対弾きたくない。
2015-01-27 21:15:23「おたくらしっく」
kenさんのブログ
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-bb3f.html
...細川作品と三輪作品は、水と油ほどに違う・・・といいますか、三輪さんの方は液体ですらありませんでした。
●のほうの細川作品は基本的に横の複数線が強調された、聴き手に情緒を誘発する音楽、○のほうの三輪作品は、初期作である《3つの小品》からして、思考をくすぐる音楽、という印象を持ちました。いつものとおりで、まあ、いちオッサンの勝手な印象です。
そんな細川ピアノ作品と三輪ピアノ作品が交互に演奏されるなどということは、後にも先にも今回限りの、一期一会だったのだろう、と、数日考えた末に思い至ったのでした。
どこまで計算してのことなのか分かりませんが、こんな企みをするなんて、大井浩明さんは本当に悪い人です。
企みがはまったのでしょうか、こんな面白い聴きものはありませんでした。
笑って、沈んで、なんか曲といっしょにペンライト(歳がばれる言い方だ!)振って、禅寺で叱られて、しっとりして、最後はちと無重力空間を無感情に遊泳して、と、いわゆる「現代音楽」でも、まあ聴いててこんなに揺さぶられるもんか、と、目が回ってしまいました。
いま世の中で起こっていることと照らし合わせると、これが奇妙なほどに時宜にかなっているような気がしてきました(どんな時宜にかなっているのか、は、直接には申し上げません。日付で「そうなのかな」と世間にリンクしていただければ充分です)。
素材は、音の流れ、もしくは線です(適切な言い方かどうかは割り引いて捉えていただければありがたいです)。
それが、みごとな対照をなしていたのでした。
かたや、流れの底には流れに相応する、人間の感情の揺れ、いわばどちらかというと具象に固定されない感覚を要求する。
かたや、ひたすら線として、その描線の鋭さ緩さ(緩い方は《レット・イット・ビー アジア旅行》以外にはほとんどありませんでしたけれど)で知覚を刺激する。
感覚が呼び覚ます情か、知覚がもたらす理か、という対立が、作品の違いに大きく現れているのですけれど、それを取り混ぜて聴かせてもらえたことで、人間とはこの二項対立をいつも抱えてそこから離れられない存在なのだな、と、いまさらながら強く納得させられることになった、1月25日の POCは、そんな回になったのでした。
大入り満員の聴衆でした。いらしたみなさんどなたにも満足のいく回になったことでしょう。
聴いていたかたたちみんなが、音と音の合間の沈黙にまで静かに、けれども熱く耳を傾けていたのも、大変に印象的でした。最近の一般のクラシックコンサートでは儀礼的にしかなされないことが多いですから、この熱さはまた特筆すべきことであったろうと感じております。
大井浩明 POC(Portraits of Composers) 第20回公演「細川俊夫/三輪眞弘 ピアノ作品集」よじべえさんの感想: masahiromiwa-yojibee.blogspot.jp/2015/02/poc20.…
2015-02-02 09:29:00