井筒屋で開催されていた『世界のワニ展』は素晴らしいものだった。わざわざ電車に乗って独りで稲口まで来た甲斐があったと、ヤモっちは思った。ヤモっちはスマホを手にして、特に良く撮れたメガネカイマンとワニガメの写真をレプ友の理佐にLINEで送信する。1
2015-02-24 18:24:33ヤモっちは、夏休みを利用して、母方の実家である山口県に遊びに来ているのだ。「キィ」足元に置いた、スポーツバッグを改造して作った自作ケイジの中で、相棒の大ヤモリが不満げに鳴いた。どうやらキーちゃんはワニ展がお気に召さなかったらしい。そりゃそうだ。怖いに決まってる。2
2015-02-24 18:30:34祖父母の家は、神手市中心部である稲口駅から急行と鈍行を乗り継いで40分。最近になって神手市に合併された旧村地区にある。ピロローン。ヤモっちのスマホが鳴る。「うらやましー!」とヨダレを垂らすイグアナのスタンプが、理佐から返ってきた。それを見てヤモっちは満足そうにフフッと笑った。3
2015-02-24 18:35:20電車が上倉駅を通過した時のことだった。「あっ、あっ、あああああーっ!」電車の中に女性の奇声が響き渡った。ヤモっちがそちらを見ると、髪の長い女の人が遠ざかっていく上倉駅を呆然と見送っていた。年の頃は20代だろうか。ヨレヨレのTシャツに、摩り切れたジーンズ。ちょっと危ない人かも。4
2015-02-24 18:50:58ヤモっちはスマホの中のレプ(爬虫類)達に夢中で気付いてなかったが、稲口駅で乗り込んだ時からその女性は車両内で結構な注目を集めていた。なにしろ美人だ。服装はみすぼらしいが、却ってそれがスタイルの良さを引き立てている。そして、オドオドと挙動不審。つい目線がそちらに行くのも仕方ない。5
2015-02-24 19:05:11「こっ、こ、これキュウコウ? ……ど、どうして? ……ど、ど、どうしよう?」女性は気の毒なほどに動転して、真っ青な顔でブツブツと呟いていた。上倉駅に行くつもりだったのに間違えて急行に乗ってしまったのは解るが、それにしても狼狽し過ぎだ。関わらないでおこう、とヤモっちは思った。6
2015-02-24 19:19:13しかし、次の駅に着いて乗り継ぎのために降りようとしたヤモっちは、その女性が席から立とうともせずに青い顔で震えてるのを見て、うっかり声を掛けてしまった。「駅に着きましたよ? 上倉駅に行くんじゃないんですか?」それが、ヤモっちの大失敗であった。7
2015-02-24 19:28:02「ひゃっ、……す、すす、すみません……」怯えたように御礼というか謝罪を述べた彼女は、ヤモっちと共に急行列車を降り、ヤモっちと共に向かいのホームに停まっている鈍行列車に乗り込んだ。「って、違うよーっ! 上倉駅に行くならこの列車じゃないよ!」「えっ、えっ、す、すみません……」8
2015-02-24 19:34:15「あ、あの、……では、上倉駅……」と言って、彼女は俯いて黙ってしまった。「はー、やんなるなぁ、もう」ヤモっちは大きな溜め息をひとつ。「暇だから、上倉駅まで送ってあげるよ」ポリエナメルのケイジを手に持って立ち上がる。「キー!」ケイジの中でキーちゃんが鳴き声を上げる。9
2015-02-24 20:19:05「あたしの名前は、時々雨宮守。言っとくけど、この辺に住んでるわけじゃないから、あんま詳しくはないよ」ほんの二駅折り返すだけだけど、なんだか長い旅になりそうな予感を感じながらヤモっちは名乗った。「……わ、わ、わたしは、スミです。……明石、澄美です」それが、彼女の人間名であった。10
2015-02-24 19:45:23上倉駅まで、待ち時間も合わせて電車でふた駅30分。ヤモっちと澄美はとりとめのない身の上話をして過ごした。澄美の話は要領が悪い上に、何か知られたくない事情を隠しているようで、ヤモっちに判ったことは澄美が独り暮らしをしていることと何らかの『職人』らしいと言うことぐらい。1
2015-02-25 19:03:11一方のヤモっちはそれなりに要領良く説明したものの、自分の周りの狭い世界しか知らず、その狭い世界の理解すら極めて怪しい澄美にとって理解できる内容ではなかった。トウキョウの、キボーサキガクエンに通ってるとか言われても、遠い遠い異世界の話にしか、澄美には思えなかった。2
2015-02-25 19:06:34「キーキー」大ヤモリのキーちゃんも、ケイジの中から何やら自己紹介をしてるようだが、その言葉はヤモっちにも澄美にも分からなかった。「この子はキーちゃん。ウチに住んでるヤモリで、あたしの家族みたいなものだよ」と、ヤモっちは紹介した。これは、澄美にも良く分かった。3
2015-02-25 19:10:13そしてもうひとつ澄美に良くわかったことは、ヤモっちのことだ。ヤモっちは、つっかえつっかえ喋る澄美のことを遮ったり怒鳴ったりせずに、じっくり話を聞いてくれている(少しイライラしてはいるみたいだけど)。とっても良い人だ。だから上倉駅に着いた時に澄美は、勇気を振り絞り、こう言った。4
2015-02-25 19:13:53「あっ、あの、……あの! ……うっ、う、うちに遊びに来てください! お……美味しいものとか、あります!」とんでもない申し出! 初対面の人をいきなり家に招くなんて、なんて非常識な人なんだろうとヤモっちは正直ドン引きした。この人、どうやって今まで生きて来たのか不思議でしょうがない。5
2015-02-25 19:25:11同時に、ヤモっちは興味を持ってしまった。芸術家って変わり者が多い印象あるけど、澄美さんは飛びっ切り変わってる。ひとりでマトモに電車にも乗れないような人が、一体どんな生活をしてるのか、覗いてみたくなった。「もしもし、おばあちゃん? うん。あたし。ちょっと寄り道するから遅くなるね」6
2015-02-25 19:34:16神手市上倉区五番町。駅からバス通り沿いに徒歩15分ほどの古びた雑居ビルの地下に、澄美の住む部屋はあった。驚くべきことだが、駅からビルまではほぼ一本道にもかかわらず澄美は一度道を間違えてヤモっちに指摘されるまで気付かなかった。「ええと、左……」と呟きながら右に曲がったのだ。7
2015-02-25 19:48:11雑居ビルの暗くて埃っぽい階段で地下に向かうときには、流石のヤモっちも気味が悪く引き返そうかと思ったが、折角ここまで来たので黙って澄美の後について降りていった。「キーキーキー」暗い場所が好きなキーちゃんは、ケイジの中で機嫌が良さそうだ。突き当たりの、錆が浮いた扉が軋みながら開く。8
2015-02-25 21:17:22そのワンルームは、狭く、コンクリートの壁が剥き出しだった。これが女性が独り暮らしする部屋だなんて、ヤモっちには信じ難いことだった。部屋の他には狭いバスルームとトイレ。開けっ放しのクローゼットは空っぽ。キッチンにはコンロもない。静かに唸る、ところどころ塗装の剥がれた冷蔵庫。9
2015-02-25 21:23:19ボロボロの毛布が一枚。床に直置きされたアンティークじみた黒電話が一台。空き缶とペットボトルが無分別に突っ込まれたビニール袋がいくつか。澄美の部屋には、まともな人間の生活感はなかった。そして、六畳一間の中で最も異彩を放っているのは、澄美の『作品』であった。10
2015-02-25 21:31:36その『作品』を見て、ヤモっちは背筋がゾッとした。少女の、石像。高校生のヤモっちよりもやや幼い雰囲気で、中学生ぐらいの姿だろうか。石像の少女は、瞳のない眼を恐怖で見開き、立ちすくんでいた。まるで生きているかのような石像の表現に圧倒され、ヤモっちは恐怖と共に美しさを感じた。11
2015-02-25 21:37:06