ホラーと対峙する——恐怖・差別・排除について
- t_mutsumin
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@liliput ほぼすべてかー。その辺、僕は「対象についての情報獲得の不完全性」が本当にホラー作品すべてにおいてあるのか、(サンプルの検証数が不足している為に)判断する能力がないんです。たとえば一方が他方の行動パターンを完全に理解できる対象との間にホラーは発生するのかとか。
2010-12-20 23:48:48@liliput まあ妖怪は大抵「よく分からない何か」を説明つける為のものだったりして、直接恐怖を煽る為のものじゃないことが多いですものね
2010-12-20 23:49:38@liliput なので、「主体が対象の行為パターンについてどの程度理解しているか」という認知の条件がどういう条件に落ち着いた時に差別的な価値判断が成立するのか。ここまで明らかになると、ホラーとその他怪異譚の区分が認知用語で整理できるのではないかと。
2010-12-20 23:50:56@tricken 僕も全てのホラーを精査した訳ではないですが、ホラーとは読者の側に何らかの偏見が無いと成立しない分野だと思うのです。作中では登場人物の心理行動が完璧に説明されていたとしても、読者の側に「こんな奴キモイ理解できない」という心理があることを前提してホラーとして成立する
2010-12-20 23:52:08読者が「殺人鬼の気持超分かるわー逃げまどう人を斬りまくるの最高よね☆」とか「食人わかるわかるー脳みそ美味しそうだよね!」とかいう人であればホラーは成立しない。
2010-12-20 23:53:49@liliput なるほど。読者の(たとえ架空の対象であれ)対象に感じる差別意識それ自体を批判し始めると、それはもうホラー的作品の受容として成立しづらくなるのですね。
2010-12-20 23:54:18そうか、あからさまに理解不能なもののほうが安全で、むしろボーダーラインケースの方が突き詰めると怖いのな。
2010-12-20 23:56:19@tricken ホラーというのはその点、詩的な分野だと思うのですよね。詩は鑑賞者の解釈が加えられることを前提として成立する文学ですが、ホラーも読者の側に「こんな奴キモイ受け入れがたい」という価値観があることを前提として成り立っていると思うのです。
2010-12-20 23:57:09@liliput 私の場合逆に怪異に襲われるのを心待ちにしている変態なのでやはりホラーがホラーにならないw RT 読者が「殺人鬼の気持超分かるわー逃げまどう人を斬りまくるの最高よね☆」とか「食人わかるわかるー脳みそ美味しそうだよね!」とかいう人であればホラーは成立しない。
2010-12-20 23:57:31@liliput なるほどなあ。いやはや、僕も凡夫なのでその辺の話は生活批判含みで面白いです。
2010-12-20 23:58:27@liliput あまり追えてないのですが、自分自身を恐怖の対象とするホラーもまた、根元には偏見があるのでしょうか。
2010-12-21 00:00:37@tinouye そうですね、先に綾辻と言っちゃったのは失礼しました(> <) このネタの話は他の漫画や小説でも扱われており、定番となっていますね。
2010-12-21 00:01:10@liliput いやまあ大好きですけどね。妖怪幽霊譚も洋物なバスターズ的なものもパニックホラーみたいなものも。ただまあ作者の意図した反応には至らない場合が多々あるというかなんというかw
2010-12-21 00:02:37@tricken ま、人間は差別意識や偏見を捨てることなどできないのでそこに対して直接批判を加える気はないのですがw そしてどのような文芸にもそういう側面はありますよねー。ヒトとして当然備えている(と想定される)情動と偏見の区別は難しいのかもしれません。
2010-12-21 00:03:38殺人者を「キモイ受け入れがたい排除したい」と思う事は確かに差別意識だと思うのだけれど、別に責められることだとは思わんのよね。
2010-12-21 00:05:11@liliput いやあ、そもそもそれを根本から批判し始めると、「我々は何も認識しない、何も学ばない、何も判断しない、何も習慣を持たない」が理想になりますから、無理な話なんですよ。ただ、有害な予断を変えるべきと判断した時にそれを「変えがたい」と感じる時に差別は温存されるのかなと。
2010-12-21 00:05:55@shiroru 僕も大好物ですwww一番好きなのはサイコホラーですがw パニックホラーだのゴーストバスターズの話だのは、著者の方も本気で怖がらせようとは思ってないと思いますよw
2010-12-21 00:08:06差別とは、生存の為の判断・学習・適応に伴う副作用として、ある対象評価の認知と振る舞いが習慣化したものなのだと思う。それが一般的価値に照らして誤っていたとしても、その主体が所属する(となんとなく認識している)集団内で安全に生きられるのなら、それはある意味で合理的な習慣化なのだ。
2010-12-21 00:09:40