斎藤一日記

自分のつぶやきに登場した 斎藤一 山口二郎/次郎 藤田五郎  を拾い集めています。
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新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1868年11月6日(明治元年9月22日)は戊辰戦争において会津藩が降伏した日にあたる。 「巳の刻-午前十時-鈴木爲輔、安藤熊之助をして北追手前に白旗を建てしむ。 此の時官軍の使番馬を馳せて令を各藩の陣地へ傳へて発砲を止めしむ。」 pic.twitter.com/aREEmywGqy

2015-11-06 18:27:11
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国立公文書館 @JPNatArchives

1868年11月6日(明治元年9月22日)、 会津藩が新政府軍に降伏し、会津戦争が終結しました。画像は、明治6年(1873)、若松県(現在の福島県北部)権令沢簡徳から岩倉具視に若松城の現状を報告した写真です。#若松城 #戊辰戦争 pic.twitter.com/D553ACHJXa

2015-11-06 08:00:34
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新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

@kiraboshi33 一番隊より八番隊迄有之、一組十人之由 武田観柳斎殿 井上源三郎殿外五人」 「勘定役 岸島 原田 予州松山藩ニ而脱走之由」

2015-11-05 19:07:34
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1877(明治10)年10月28日は西南戦争に従軍していた藤田五郎(#斎藤一)が帰京した日。

2015-10-28 21:39:28
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1865年10月28日(慶応元年9月9日)は土方歳三が近藤周斎らに書簡を認めた日にあたる。 この時「行軍録」も送付する。 大銃頭/藤堂平助 小銃頭/沖田総司、永倉新八 槍頭/斎藤一、井上源三郎 軍奉行/伊東甲子太郎 小荷駄奉行/原田左之助

2015-10-28 21:29:37
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1868年10月23日は、慶応から明治に改元された日にあたる。(明治元年9月8日) 「詔シテ慶応四年ヲ改メテ明治元年ト為ス。又一世一元ノ制ヲ定ム」 『維新史料綱要』

2015-10-23 18:17:09
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1868年10月20日(慶応4年9月5日)の維新史料綱要。 「若松ノ官軍、兵ヲ分テ高久-岩代国北会津郡-坂下・塔寺-竝ニ岩代国河沼郡-諸驛ノ賊ヲ破リ、進ンデ舟渡村-岩代国河沼郡-ヲ略ス。是ニ於テ、両道ノ官軍、始メテ相会ス」

2015-10-20 23:39:12
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@kiraboshi33 山口二郎は如来堂周辺で仲間と離散したあと、ゲリラ戦をしていたという口伝が残る。 「若松守城中は高田の地、僅少なる残兵を指揮して、若松附近にありてゲリラ戦をなセり」『藤田家文書』

2015-10-20 21:35:29
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

@kiraboshi33 「南軍若松城ニ向ヒ、小田山ヨリ眼下ニ城中ヲ射撃シ、諸口ヨリ大砲ヲ放発シ攻進シ、忽転ジ如来堂、高久村ニ向ヒテ襲来ス。我戍兵深霧ニ隔テラレ敵ノ近ヅクヲ知ラス。一戦ニ高瀬新田、如来堂ノ壁ヲ破ラレ塩川ニ退ク」 今井信郎『北国戦争概略衝鉾隊之記』

2015-10-20 21:33:58
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1868年10月20日(慶応4年9月5日)は、高久方面で戦いがあり、如来堂の守備にあたっていた山口二郎(斎藤一)らが行方不明となる。 「四方ニ当テ突撃血戦シ終ニ血路ヲ得ス 長子枕ヲ共ニシ潔ク討死ス。天晴レ信勇ノ武夫也」中島登戦友姿絵 pic.twitter.com/SL72Ne29wq

2015-10-20 21:22:14
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新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

@kiraboshi33 『立川主税戦争日記』の 「我局二十余名如来堂ニ宿陣ス、敵不意ニ五百余人攻来ル雖ドモ……」 から、日付の記載はないが、 山口二郎(#斎藤一)が率いる会津に残った新選組のメンバーは、この日如来堂で宿陣したととれる。

2015-10-19 18:56:15
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1868年10月19日(慶応4年9月4日)は、戊辰戦争において、衝鋒隊が小荒井(喜多方市)に援軍として出陣した日にあたる。「木曽口破レ(伝習隊)南軍小荒井ニ迫ル。会、援兵ヲ乞フ頻ナリ」『北国戦争概略衝鉾隊之記』今井信郎

2015-10-19 18:51:54
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1868年10月9日にあたる、 慶応4年8月24日の『維新史料綱要』。 「官軍、若松城ヲ攻ム。賊兵拒戦、容易ニ抜ケズ。乃チ火ヲ外郭ニ放チ、諸口ヲ扼シテ長囲ヲ築キ、援軍ノ至ルヲ俟ツ。是日、五十里驛ニ滞陣セシ会津藩老臣山川大蔵重榮藩兵ヲ率ヰテ城ニ入ル。」

2015-10-09 21:25:56
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

@kiraboshi33 甘味勝之助、田村市郎、吉田某、三品次郎、木下藤吉、河江某、 清水某、小畑某、立川主税、池田常三郎、高田文次郎、 歩兵神山吉之助、竹本鹿次郎、石川平次郎等拾三人而已」 『若松記草稿』

2015-10-07 18:42:04
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同日、山口二郎らは城下の旅籠「斎藤屋」で宿泊する。 「廿二日若松市中ニ止宿スル人別大概 隊長山口次郎、軍目安富某、同嶋田某、同久米部某、 歩兵頭取近藤早雄、小隊頭近藤芳祐、以下隊長附士官大松某、小方某、 関口作蔵、中村清七、黒川佐吉、 大砲方警衛志村猪之助、同白戸巴衛、吉田由太郎

2015-10-07 18:39:14
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

依之若松城下ニ残リ居候戦士尽ク滝沢峠二橋ノ両道ヘ向ハシム。 当隊ハ天寧寺エ集リ一泊ス。」『中島登覚書』

2015-10-07 18:32:52
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1868年10月7日(慶応4年8月22日)、戊辰戦争中、母成峠の戦いの翌日。猪苗代への敵兵の侵攻。 山口二郎(斎藤一)は二橋口へ退き、若松城に登城、報告する。 「敵兵井苗代エ責寄ス。於此山口某ト共ニ二橋口エ引揚、直ニ若松城下ニ至リ山口公直様登城前顕ノ由ヲ言上ス。

2015-10-07 18:31:52
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

(斎藤一は猪苗代城へとたどり着き、土方歳三と再会。協議の上、土方は十六橋方面に向かう) 「土方、山口公、井苗代城ニテ会之軍事方ト評定之上、土方公ハ戸ノ口ヨリ十六橋エ向ハル。」『中島登覚書』

2015-10-06 23:58:03
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

(会津藩士3名に出会い、道案内を買って出てくれたが日暮れになるまで潜伏し時が過ぎるのを待つ間、斎藤一らは先に会津を目指す) 「而して日没後密かに彼等を尋ぬるに其人影なし、彼等密かに脱したるものと見えたり。」

2015-10-06 23:54:46
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

此時敵は後より狙ひ撃に発砲したるを以て、忽ち六、七名戦死せり。其惨状、敵丸に中れば岩みる暇なく、辛うじて漸く山上に登り、九死に一生を得たりしなり」

2015-10-06 23:50:21
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

之れ果して敵なるが故、到底此道を通過する能はず、已むなく元の道へ引返す中、敵は急に追撃し、其距離十二、三間なり。一同逃るゝに途なく、已むなく幅十間、深三、四尺程の山河を跋渉す。対岸は岩石峨々として猿ならでは攀ぢ登る能はざる難所を、一生懸命葛に取り付き攀じ登れり。

2015-10-06 23:47:37
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

左右とも森林にて敵に如何なる謀のあるやも知れざれば、深く心を配り、該道の出合口にて山口次郎は振旗を取て左右を視たるに、凡十五間先きに一小隊程の人数屯し居たり。敵味方の分ちなきを以て、次郎振旗を一振すれば、忽ち彼れより連発せられたり。

2015-10-06 23:42:47
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

(斎藤一は新選組らとはぐれ、一人で(?)山中に。その時二本松藩士・黒田伝太らと遭遇。共に会津を目指すことにする) 『黒田伝太氏回顧の記抄録』「谷間の細道にて新微組の隊長山口次郎に往き会ひ、共に会津に往くべしと協議し、凡二丁程進みし時、石莚村より瀧沢村に通ずる道路に出でんとしたるも

2015-10-06 23:39:00
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

(山口次郎=斎藤一は) 『若松記草稿』 「将軍山ニ新撰組山口次郎、士官幷歩兵合テ百二十余引率出張シテ在シカ、廿一日戦破レテ散乱」

2015-10-06 23:31:45
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