「ニセ科学」?「間違った科学」?
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科学であるものとそうでないものが何によって分けられるか,という「線引き問題」はながく科学哲学の中心的な問いであったわけだが,80年くらいの議論の結果は「線引きを明確にするのは困難だ」ということになっている(といっても間違いではないと思われる)。
2011-01-01 04:34:20とはいえ「自然科学がもっていてそれ以外の学問がもっていない特徴」を列挙することはできる。そしてその中で最も重要なことは研究者が発見したり主張したりすることの「正しさ」(妥当性)の基準がどこにあるか,ということだ。
2011-01-01 04:35:52中谷宇吉郎は「科学の方法」のなかで「科学とはほんとうかほんとうでないかだけをいう学問」とした上で,「ほんとうとは,いろんな人の感覚を経て得た知識に矛盾がないこと」としている。私が言う「正しさ」「妥当性」もここでいう「ほんとう」のことだ。
2011-01-01 04:40:21自然科学の大きな特徴はこの妥当性の基準を「研究者自身から外部化している」ことだ。つまり研究者の言うことが「ただしい」ことは,その研究者の内部の論理や信念によってではなく,研究者の外部にある手続きやコミュニティによって確認される,ということだ。
2011-01-01 04:44:11「研究者の外部にある手続き」の典型的なものとして「測定」「実験」「統計」をあげることができるし,「コミュニティ」として「査読論文」「国際誌」をあげることができる。逆に言えば,測定も実験もせず統計も使わず,査読論文も国際誌もないものは,自然科学ではない。
2011-01-01 04:48:35自然科学者は時々こうした「ただしさを保証する外部システム」が天地開闢以来存在する無謬の真理のように考えているように見える場合もあるが,いうまでもなくこれらのシステムは17世紀から20世紀にかけての自然科学の爆発的な発展の中で誕生し発展してきたものだ。
2011-01-01 05:10:12RT @ynabe39: 科学であるものとそうでないものが何によって分けられるか,という「線引き問題」はながく科学哲学の中心的な問いであったわけだが,80年くらいの議論の結果は「線引きを明確にするのは困難だ」ということになっている(といっても間違いではないと思われる)。
2011-01-01 05:17:47RT @ynabe39: とはいえ「自然科学がもっていてそれ以外の学問がもっていない特徴」を列挙することはできる。そしてその中で最も重要なことは研究者が発見したり主張したりすることの「正しさ」(妥当性)の基準がどこにあるか,ということだ。
2011-01-01 05:17:51RT @ynabe39: 中谷宇吉郎は「科学の方法」のなかで「科学とはほんとうかほんとうでないかだけをいう学問」とした上で,「ほんとうとは,いろんな人の感覚を経て得た知識に矛盾がないこと」としている。私が言う「正しさ」「妥当性」もここでいう「ほんとう」のことだ。
2011-01-01 05:17:56RT @ynabe39: 自然科学の大きな特徴はこの妥当性の基準を「研究者自身から外部化している」ことだ。つまり研究者の言うことが「ただしい」ことは,その研究者の内部の論理や信念によってではなく,研究者の外部にある手続きやコミュニティによって確認される,ということだ。
2011-01-01 05:18:11RT @ynabe39: 「研究者の外部にある手続き」の典型的なものとして「測定」「実験」「統計」をあげることができるし,「コミュニティ」として「査読論文」「国際誌」をあげることができる。逆に言えば,測定も実験もせず統計も使わず,査読論文も国際誌もないものは,自然科学ではない。
2011-01-01 05:18:20近代以前の人文学における「ただしさ=妥当性」の基準は自然科学のように外部化されてはいない。まず「ただしさを保証する手続き」は基本的に「研究者内部の思考や論理のただしさ」に依存するし,「ただしさを保証するコミュニティ」も自然科学のように明示的に整備されてはいない。
2011-01-01 05:22:53いま@ynabe39 さんの連続ツイートを5つRTしました。「「ただしい」ことは,その研究者の内部の論理や信念によってではなく,研究者の外部にある手続きやコミュニティによって確認される」を科学の特徴だとみる見方に注目しました。
2011-01-01 05:23:42究極の人文学では,その研究者が「天才」であれば,なんの外部的な手続きも用いず,なんのコミュニティにも属さなくても(自分以外の誰にも認められなくても)「ただしいこと」を述べることができる。
2011-01-01 05:24:23昨今よく目にする「ニセ科学」というレッテルは、手続きに瑕疵があるのではなく、コミュニティに(正しいと)認められていない事実を意味して貼られていると解釈すれば、理解可能だ。しかし現実には、あたかも前者で判断しているかのように伝わっているし、私もいままでそう理解していた。
2011-01-01 05:26:58RT @ynabe39: 自然科学者は時々こうした「ただしさを保証する外部システム」が天地開闢以来存在する無謬の真理のように考えているように見える場合もあるが,いうまでもなくこれらのシステムは17世紀から20世紀にかけての自然科学の爆発的な発展の中で誕生し発展してきたものだ。
2011-01-01 05:27:51RT @ynabe39: 近代以前の人文学における「ただしさ=妥当性」の基準は自然科学のように外部化されてはいない。まず「ただしさを保証する手続き」は基本的に「研究者内部の思考や論理のただしさ」に依存するし,「ただしさを保証するコミュニティ」も自然科学のように明示的に整備されてはいない。
2011-01-01 05:29:11RT @ynabe39: 究極の人文学では,その研究者が「天才」であれば,なんの外部的な手続きも用いず,なんのコミュニティにも属さなくても(自分以外の誰にも認められなくても)「ただしいこと」を述べることができる。
2011-01-01 05:29:27コミュニティに(正しいと)認められていないものは、「ニセ科学」というより「間違った科学」というべきだろう。科学は、累々と積み重なった間違いの屍を乗り越えて前進するものなのだから。科学はたしかに正しいものを希求するが、その際に間違うことを避けられない。間違いはむしろ必然である。
2011-01-01 05:34:13@HayakawaYukio 科学が間違いの屍を乗り越えてというのは全くそうだと思いますが、同時代の科学によって間違いを指摘され、それに対して科学的に反証できないのであればそれは「間違った科学」とはまた別なのではないでしょうか。
2011-01-01 05:58:14間違った科学とは何の事だろうか、科学は単に科学であって「間違っている」とか「間違っていない」という言葉がつくのはおかしい。 後の世の新しい技術、研究、概念で過去の科学が間違いと指摘される事は多々あるが、少なくともその過去の科学の時代においては間違いではなかったはずだ。
2011-01-01 06:02:23@yoshitsunek 「それに対して科学的に反証できない」をポパーの反証可能性を念頭にしてお話になっているのなら、それは間違いを指摘した側へのテストであって、間違い側のテストにはなりません。だから、単なる間違い以上のものを私はそこに見ません。
2011-01-01 06:02:44ニセという言葉には、インチキとか悪意とかの負の要素があります。それは、いまここで考えているのとは別の判断基準です。単なる間違いにニセというのはおかしいと思うし、ニセといいたいなら、それは、科学とは別の方向からそれを見ていることになる。@yoshitsunek
2011-01-01 06:04:58つまり、「間違っていた」科学はあっても「間違っている」科学は無いと考える。 ある時代、時期の科学が間違っているのが同時代において立証されているのであれば、それは科学ではないからだ。 それは科学とは似て非なる物、似非科学。
2011-01-01 06:06:31