【元旦早々】心理学は自然科学か?【学者乙】

渡邊芳之 @ynabe39 北海道帯広市 心理学者,専門は性格心理学,心理学論。近著は「性格とはなんだったのか〜心理学と日常概念」(新曜社, 2010, ISBN4788511886) http://twilog.org/ynabe39
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渡邊芳之 @ynabe39

いいえ。そうではないしそうでなくてもよい。RT @shiraga0516: そういう論点であるなら、人文科学が真にディシプリン化されていると考えておられますか?

2011-01-01 05:24:52
渡邊芳之 @ynabe39

勘違いしてほしくないのですが,私は「心理学が自然科学である」と主張しているわけではありません。「科学的な心理学」のかなりの部分が実際には「科学といえないもの」であることは私が長年主張してきたことです。 @aohmusi

2011-01-01 05:26:37
沼崎一郎 @Ichy_Numa

@ynabe39 だって、人文系では支配的なパラダイムが確立してないんだもの。前パラダイム状況なんだから。

2011-01-01 05:26:02
渡邊芳之 @ynabe39

2000年以上「前パラダイム状況」なんですか?もともと「非パラダイム」なのでは? RT @Ichy_Numa: だって、人文系では支配的なパラダイムが確立してないんだもの。前パラダイム状況なんだから。

2011-01-01 05:27:40
渡邊芳之 @ynabe39

究極的には研究者本人になります。だから中谷宇吉郎は「ほんとうと言えるものが科学」といった。RT @shiraga0516: それを「正しい」と判定するのは誰なんだろう?

2011-01-01 05:30:06
渡邊芳之 @ynabe39

とはいえ人文学が「妥当性の基準」を何も持っていないならそれは「言いたい放題」になる。実際には人文学でも認められ後に残る学説とそうでない学説は峻別される。では「測定・実験・統計」の手続きと「査読誌」のコミュニティを持たない「学問」における「ただしさの基準」はどこにあるのか?

2011-01-01 05:33:40
渡邊芳之 @ynabe39

ちょっと違う。それはそれらが「科学」と自称しはじめてからです。「学」としての人文学はそれこそ古代ギリシャ以来存在する。 RT @Ichy_Numa: なにしろ、いわゆる人文社会科学が「学」として認められて、たかだか150年でしょう?

2011-01-01 05:35:43
沼崎一郎 @Ichy_Numa

いや、従来は術であったり芸であって、学ではなかったのでは? RT @ynabe39: ちょっと違う。それはそれらが「科学」と自称しはじめてからです。「学」としての人文学はそれこそ古代ギリシャ以来存在する

2011-01-01 05:38:00
渡邊芳之 @ynabe39

では近代以前のヨーロッパの大学ではいったい何を教えていたのですか?そこに「学問」は存在しなかった?あるいは科挙で問われた知識は「学問」ではなかった? RT @Ichy_Numa: いや、従来は術であったり芸であって、学ではなかったのでは?

2011-01-01 05:40:39
渡邊芳之 @ynabe39

学問あるいは「学」というのは「なにかについての知識の体系的な集積」であって,それは近代以前からさまざまな分野で,またさまざまな文化の中で成立していたと思います。「科学でない学問」は昔も今も脈々と存在します。

2011-01-01 05:44:21
渡邊芳之 @ynabe39

そのために自然科学のパラダイムを借用した,ということならある程度同意です。 RT @Ichy_Numa: いや、術や芸と学の境が無かったのだと思います。それを無理やり区別しようとしてきたのが、この150年じゃない?

2011-01-01 05:44:58
渡邊芳之 @ynabe39

西周が「学芸」という言葉を「Science and Art」の訳語として作ったことはその点で重要ですね。 @Ichy_Numa

2011-01-01 05:50:17
渡邊芳之 @ynabe39

「学術」も西周が作った言葉か。西周は「学・術・芸」をちゃんと見てたわけだな。

2011-01-01 05:52:15
渡邊芳之 @ynabe39

さて本題に戻ろう。時間があと10分くらいしかない。

2011-01-01 05:53:58
渡邊芳之 @ynabe39

(承前)人文学においても妥当性の基準はコミュニティにある。ただそのコミュニティの実体や機能は自然科学に比べて不明確だ。ソクラテスやニーチェがいまだに読まれる一方で,歴史の中で忘れ去られた学説・学者は無数にある。これは「コミュニティ」が前者を選択し,後者を選択しなかった結果だ。

2011-01-01 05:58:35
渡邊芳之 @ynabe39

しかしその「ニーチェを選択するコミュニティ」を特定し,他のものと峻別するのは難しい。それはある意味「人類そのものとその歴史」になってしまう。自然科学ではそれが「自然科学を研究する者=科学者たちのコミュニティ」とはっきり特定されていることが重要だ。

2011-01-01 06:01:34
渡邊芳之 @ynabe39

沼崎先生のいうような「大学に閉じこめられた学としての人文学」ではそのコミュニティはやや明確になる。哲学であれば哲学者たち,宗教学であれば宗教学者たち,法学であれば法学者たちだ。哲学の学説の妥当性は哲学者のコミュニティによって選択され残存することで保証される。

2011-01-01 06:04:52
渡邊芳之 @ynabe39

まさに,まさに。 RT @Ichy_Numa: 学であるとともに、芸でもあるのが、文学部の学問なのだが。

2011-01-01 06:05:08
渡邊芳之 @ynabe39

人文学における妥当性の基準は「コミュニティ」だけで,研究者の学説の妥当性は同じ学問をする人々に認められ選択されることで保証される。言い換えれば人文学における妥当性の基準は徹頭徹尾「人」なのだ。だから人文学 Humanity なのだともいえる。

2011-01-01 06:09:10
渡邊芳之 @ynabe39

さて時代が進んで自然科学の黄金時代がくると,その「人文学の属人性」が批判の対象になる。そこで人文学の多くの分野が自然科学のように妥当性の基準を外部化することでそれに対処しようとする,ということが起きるわけだがそれについてはまた改めて述べる。金魚の水換えしないと。

2011-01-01 06:11:54
渡邊芳之 @ynabe39

そうすると自然科学は典型的に閉塞化してることになりますね。 RT @Ichy_Numa: それが閉塞化。

2011-01-01 06:12:49
渡邊芳之 @ynabe39

「人」はべつに「人柄」という意味ではありません。 RT @HirokiMori: つまり、部外者がある人文学のある特定の研究の妥当性を判断するためには研究者の人柄を(直接・間接に)見るしか無いという事ですね。

2011-01-01 06:14:41
沼崎一郎 @Ichy_Numa

が、時々大革命が起きるというのが、クーンの説では? RT @ynabe39: そうすると自然科学は典型的に閉塞化してることになりますね。

2011-01-01 06:14:19
渡邊芳之 @ynabe39

パラダイムがあるからパラダイムシフトがあるというのは自然な論理です。 RT @Ichy_Numa: が、時々大革命が起きるというのが、クーンの説では? RT @ynabe39: そうすると自然科学は典型的に閉塞化してることになりますね。

2011-01-01 06:15:19
渡邊芳之 @ynabe39

沼崎先生の問題意識もわかってきた。でも金魚の水換えをしないと。

2011-01-01 06:15:54
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