「中立」と「公平公正」はどう違うか~潘国連事務総長の”回答”から”ハシモト・アベ”思考を逆照射する
続)菅長官が世界の国連PKOの議論を踏まえず「公平公正は当たり前」と言ってしまったのは、つまり「PKOで死者が増えようと当たり前」と言ったに等しい。「中立」から「公平公正」に転換する議論での、現場の”苦渋”を何ら慮る事もなく。国連自体を知らない。知らずにクレームを付けている。
2015-09-07 19:21:23”中国人の反応”
潘事務総長「国連は中立ではなく公平公正である」、中国ネットは絶賛: recordchina.co.jp/a118371.html 恣意的にツイートをまとめてる煽りレコチャイ記事だけど、内容はどれも論理の筋が通っている。論理の「筋が通る」かどうかは自他(または国民と国)の区別から始まる。(続
2015-09-07 21:26:06続)他人に「自己批判しろ」とか「自粛しろ」とか「自己責任だ」とか「マイナンバー」とか言ってそれで通ってしまう国では、論理を構築してもその主体(主語)がすぐ反転してしまうので。そう言う反転をむやみにすると論理自体が壊れるのに無「自」覚。集団的自衛権の「当てはめ」での結論反転もこれ。
2015-09-07 21:31:42続)ただ、”中国人の反応”にある 「日本は中立と公正の意味の違いが分からないふりをしているのだろう。その目的は人々の分析と判断を混乱させることにある」 は、”誤解”かも。”ふり”ではなく”素”でわからない。「論理の人」には”まさか”の話。これが最も深刻な、戦争にも繋がる”誤解”。
2015-09-07 21:36:06続)日中・太平洋戦争の時の「日本の戦争責任」もそうだったわけですよ。発する言葉と行動を「論理」で結べば、日本人は最高責任者である天皇に従い、計画的にアジアへの進出侵略を計った。そうとしか取りようが無い。ところが日本人は素で「決定の責任者はいない」「侵略の意図は無かった」と言う。
2015-09-07 21:48:54続)「意図」はある様にしか見えなくても本人にその「自覚」がない。しかし「自覚」を持つ側の人間はそれが理解できず、「合理的な悪意・意図」を様々に推測してしまう。状況が危機ならより先を読み、対応しようとする。こう言うディスコミュニケーションの果てに「戦争」は起こる。日本に限らない。
2015-09-07 21:56:20論理、自他、自分の「分」
中国の軍事パレードの批判になると、言説の左右が反転した様に「日本の空想的平和主義者」と同じ様な原理的軍事否定の言葉が”流用”されたりしている。それは日本の自衛隊の「観閲式」から安倍内閣の「積極的平和主義」「平和安全法制」「戦争抑止のための安保法案」にそのまま返る鏡映しでもある。
2015-09-09 12:14:01続)同じ論理の主体、前提状況を「当てはめ」で変えると、最後には結論が反転する。安倍内閣の”解釈改憲”はこれ。しかしこれはある”一線”を越えると、論理自体が壊れる。論理は主体があってその要請から生まれ、自と他の区別があって成り立つものだから。どこが「一線」であるかが、自分の「分」。
2015-09-09 12:19:47続)「分を知る」とは、自分と他者を区別する「一線」を認識し、定める事。そう言う試み、営み。と言う事でもあるかなと。
2015-09-09 12:22:25続)「分を知る」と言うのは元々は老子の言葉で「分」は「本分」=人の本来のつとめ、性質、くらいの意味らしい。封建的社会に於いてはこの解釈が「身分」になるわけですね。民主自由社会においては「自分」になるはずです。「自らに」「由って」「自分の」「分(区別)を」「弁える」。
2015-09-09 12:44:59続)「身分」と言うのは社会において明示的強制的に定められているものだから、つまり「客観性がある」。士農工商以下2つほど。他者に「お前の身分はこれ。身分を弁えろ」と言える訳です。この「分」を無くして行ったのが明治以降の近代社会。自分の「分」は、「自らに由って=自由に」決めるもの。
2015-09-09 12:54:48続)つまり近代社会に於いては「分を弁えろ」と”他者に”言う事は、論理として出来なくなった。しかし日本社会では今でも不適応が続いている。封建社会が生まれた人に「身分」を貼り、身分に依って強制的に定めた「職業」を、今でも”身分”を表す「客観的証拠」と見ると言う、倒錯論理の心理。
2015-09-09 13:04:48続)個人の自由な選択である職業を「客観的身分」の様に見る。つまり頭に”封建性”が残っている。だから音楽家や漫画家か”職能”と関係ない政治的発言をすると、「音楽で表現しろ」「漫画で表現しろ」。"分を弁えろ”と、「他者に」”分”を要求する。これは、封建社会でしか許されないんです。
2015-09-09 13:11:44続)自由民主社会において”他者に「分の弁え」を求めるのはイコ-ル、「自分の分を弁えていない」と言う事なんです。自他の区別が未だつかず、境界が溶けて外にはみ出している。「自由」の不理解。自分の「分」が出来ていない、と言う事。「自由」なき「民主」は、「一億一心」に向かう全体主義。
2015-09-09 13:24:48続)この「自他の区別がつかず、境界が溶けて外にはみ出している」と言う心理モデルそのままの形なのが、「集団的自衛権の”わが国の自衛の措置”としての限定容認」と言う自他倒錯論理。自覚は無くても、論理を進めると「世界はわが国≒八紘一宇」まで到達する。裏返しの”世界は一つ”です。
2015-09-09 13:53:41続)そう言う意味では、集団的自衛権限定容認は”グローバル化圧力”へに生理的に反応し、適応しようとする行為には違いない。やっている事は真逆でも「わが国の存立」は確かに、的確な課題の表現。「国」と「グローバル」あるいは「アメリカ」をどう仕切直すか。仕切りを無くすのでも、絶縁でもなく。
2015-09-09 14:02:52続)「国家」が「世界、他国」の”グローバル化”と対峙するには、まず「国」も「国民」も自らの「分」=一線を知って「区別をつけて」いる必要がある。この区別がついていない状態で対応を考えると、集団的自衛権容認の様な、自国と世界の区別もつかず裏返る「支離滅裂」の言葉になる。
2015-09-09 14:13:34続)そうなると自国が他国の「領分」を侵してもその自覚がなく、自国の領分を侵されていても気づかない、となる。参考人質疑の”グローバル研”神保氏の言葉の様に”自国領域”の概念自体が「シームレス(切れ間無く)伸縮自在」。ではそもそも「何」を「自」衛するのか?「わが国」の「わが」の溶解。
2015-09-09 14:20:05続)「ビジネス」ならば、自己利益の極大化を追求して、ダメだったら「撤退」するでも、まあ済む。「国」の責任に於いて行う戦争は、それで済む話ではない。その区別すら、果たしてついているのか。「わが国の存立のための集団的自衛権」をオカシイと思うかどうかも、つまり「自他」の意識に関わる話。
2015-09-09 14:30:10