写真分離派宣言その後2
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アサカメの写真分離派宣言評読んで、とても違和感。ナディッフに展示されてた赤字付きステートメントを読めば、松江泰治氏なんかは鷹野氏と異なる見解を持っているのは明白なのに、字義通りに受け取って書いてるし。しかも、会場に若者が詰めかけたから、それが希望かも?ってそんな締めでいいの。
2011-01-21 11:56:22おじさんたちの睦まじい感じ(展示の雰囲気や、作品販売をよしとした軟弱さ)が前景化してる内容だから、こちらもそのつもりでスルーすれば良いのかもしんないけど、もっと議論すべきことは多いはず。ゼラチンシルバーが物質としてのフェティシズム礼讃なら、分離派は行為や概念の礼賛でしかない。
2011-01-21 12:00:55ジャンルは違えど、例えばカオスラウンジ周辺の若い作り手がボコボコに批判されてもなお、ドラマをつくったりギークな企画を継続して、だんだん面白くなってきたのを見ると、写真周辺に気概がなぜ見えないのだろうと思う。清水穰や鈴木理策と真っ向勝負するデジタル側からの反応はないのか。
2011-01-21 12:06:29これはただの愚痴だな。思ってることを少し書く。ゼラチンにしろ分離派にしろ、写真の重点を事後的なものとして思考してる(勿論暗室作業を前提としつつも、それはプリントとして結実する美や、そこから派生するフェティッシュに焦点を定めている時点で、事後的)。
2011-01-21 12:12:56けれど、銀塩写真の最大の要点は、制作の様々な局面で光や液体との接触があること(例えばフォトグラム)。それはデータに還元され、ほぼゼロ距離でイメージが着床される(インクジェット印刷の構造とか)デジタルとの最大の違いであり、その時間、距離的な厚みのなかで交わされる作品とのやりとりや、
2011-01-21 12:16:19…その過程で生じる思考の履歴が、写真を写真たらしめる。つまり、本来語られるべき写真の事前性の議論が、写真周辺にまったく現れてこないことが問題であり、かなり不思議なのだ。写真にとって編集・セレクトが重要である、というドグマが例えば技巧に対する思考を妨げているのかもしれない。
2011-01-21 12:21:20その意味では選択という過程を無効化しうる、Web上での写真展開は面白いし、その一点だけでも銀塩とデジタルはあまりにも違う。もはやアナログとデジタルの境界線などない、っていうのは写真界の共通認識になっているようだけど、いま一度(というか初?)、その両者の相違を真剣に考えるべき。
2011-01-21 12:28:51@nukisuke写真分離派宣言のナディフ展に関しては同感。ただ、彼らはむしろ写真の事後性を不問に付し、事前性あるいは同時性を志向することを訴えているのでは?それこそが写真であると。むしろデジタルにおける事後性(加工・改変等)を問題にしているのでは?
2011-01-22 17:46:32@nukisuke 僕の見解を言えばむしろ写真は事前性・同時性にこだわり過ぎてきたのではないか。デジタル時代にあっては、被写体との関係における事後性こそが問われることになるのでは?
2011-01-22 17:51:26@nukisuke 例えば、松江泰治の『cell』という写真集は、事前(の事象)を事後に見出すことで、事後において出来事(いわば写真的出来事)が起こっている。事前と事後の逆転、そこが面白いですよね。鈴木理策はあくまでも同時性(撮る次元)を問題にしているような気がします。
2011-01-22 18:02:45近代写真において「加工」という言葉はつねに、否定的にとらえられてきた。そこにはおそらく、写真(機械の眼)=正確(客観的)、裸眼=錯覚(瞬間的)という根強い思い込みのせいだろう。shかし、写真も裸眼同様、錯覚なのだ(その錯覚の仕方は異なるとはいえ)。(つづく)
2011-01-22 19:44:30だからといって、写真は否定されるべきものではない。むしろ写真の錯覚は裸眼の錯覚を修整する契機にもなるのだ。「加工」には「修正」の意味合いもあるのではなかろうか。写真による裸眼の修正。
2011-01-22 20:15:44@heisodekker 松江さんの仕事に限らず、作品として出力された写真が事後性を帯びるのは明らかなことで、そこにあえて言及するのは多重的かと。自明であることを単に繰り返すだけの言説、作品が蔓延し、それを積極的に看過する写真の状況はそろそろ打破できないだろうか?ということです。
2011-01-22 22:34:53しかし、写真の現状に対するひとまずの解法は、写真として把握する媒体、表現手法を拡大することだとは確信してる。無責任に聞こえるから、言うのは躊躇するけど。
2011-01-23 00:15:23写真の人が言う、これは現代アートだよねのセリフも、現代アートの人が言う、これは写真だよねのセリフも同じくらいに飽き飽きしてるぜ。
2011-01-23 00:16:32@nukisukeおっしゃるとおりです。であるがゆえに、事前生と事後性を反転・逆転させたり、交錯させたりする必要があるということです。どちらか一方に重心を置くことなく。僕が言う事後性とはあくまでも、「被写体との関係」における事後性です。
2011-01-23 08:30:17@nukisuke「写真分離宣言」の小冊子を読む限り、倉石氏は事前性を重視する傾向にあり(鷹野氏も)、清水氏は事前と事後の反転・交錯を重視しているように思えます。
2011-01-23 08:39:32@heisodekker 今日忙しいので、考えてお返事できないのですが、「被写体との事後性」って具体的にどのようなものを想定されていますか? 画像処理のような編集? それとも被写体への心づかいみたいなものですか?
2011-01-23 10:15:16@nukisukeインデックス的であれ、類似的であれ、写真は被写体との関係をもっているわけですが、ここで言いたかった事後性とは、“起こったこと”に還元・回収するのではなく、“起こりえたこと”を志向するという意味です。ここが難しいところですが。
2011-01-23 10:46:11@heisodekker つまり被写体本体と写真に写し取られた図像は異なるものであるが故に、それを峻別したり逆に結びつけるような関係性が重視されるし「ありえた、起こりえた」という問題設定が浮上するわけですよね。でも、それはもっぱら概念的なことなので、僕は解答に窮しちゃいます。
2011-01-23 10:58:46@heisodekker もっとマテリアスティックな領域で写真を考えたいというのが僕の現在の興味なんです。技術論は必須だけど、アサカメやゼラチンシルバー的なフェティシズムには堕したくない。それは写真の秘教化に通じているように思うから。うーん、、答えになってなくてすみません。
2011-01-23 11:02:43@nukisukeおっしゃるとおりです。 写真における事前・事後というテーマはとても興味深く、関心があります。ありがとうございました。
2011-01-23 11:44:05