編集部イチオシ

ボクシングにおけるフットワーク確立の歴史と、「男気」や「見世物」の側面について

「ジョジョの奇妙な冒険」第一部で、子供たちのお遊びのボクシング中、主人公ジョナサン・ジョースターがライバルのディオ・ブランドーに「20世紀になって発達する」ディフェンスのテクニックをいち早く駆使され、コテンパンにのされる場面があります。そんなボクシングの防御、フットワークはどう発達したのでしょうか?またそれは「かわすのは卑怯」とか「見ててもつまんねーぞ」みたいな外部からの制約もあったのかもしれません…そんな考察と対話
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発言は一個人の見解です @jwtwgtj

@jwtwgtj また同書によるとプラトンは「パンクラチオンとボクシングを、戦争に役立たないという理由から退けていた」としている。「彼が体操術の一部門としてレスリングを重視したのは、それが、あらゆる運動の中で特に「戦争における格闘技」と類似しているからであった」そうだ。

2016-01-30 15:33:41
tentaQ4 @tentaQ4

@jwtwgtj @gryphonjapan こちらもお読みいただければと思います。 1886.9.25 T・リース 対 P・ジャクソン www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW111119/ 「第二とそれ以降のラウンドに於いて、リースは身をかわして、相手と対面しようとせず、(続く)

2016-01-30 15:36:54
tentaQ4 @tentaQ4

…相手は実際彼を追い掛けてリングを回った。試合運びへの歩け歩け主義の導入は観衆の好みに合わず、彼等はリースを野次った。後者がジャクソンを疲れさせようとする明白な意図であったが、彼が自分自身を消耗させただけなのは誰にも明らかであった。」 少し趣旨が変わりますが続けて豪州の拳闘史を。

2016-01-30 15:40:21
Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

参考までに 過去まとめ プラトンは「パンクラチオンは不完全なボクシングと不完全なレスリングの合体」と言ったのか?日本ではどう広まった? - Togetterまとめ togetter.com/li/840159 @jwtwgtj

2016-01-30 15:43:20
まとめ プラトンは「パンクラチオンは不完全なボクシングと不完全なレスリングの合体」と言ったのか?日本ではどう広まった? タイトル通りなんです。 「パンクラチオンは。不完全なボクシングと不完全なレスリングの合体である」とプラトンが語った…(が、我々は完全なMMAに進化した)みたい話がプロレスファンや格闘技ファンの間には漠然と伝わっているのですが、原典を探した人がおられます。 で、どうもそう発言したのはプラトンじゃないらしい?と。 もしそうなら、日本ではこのフレーズはどう広まったのでしょうか? 27266 pv 74 22 users 138
tentaQ4 @tentaQ4

豪州拳闘史1)1885年5月19日にメルボルン郊外で予定されたビル・ファーナン対トム・リース戦は、プライズファイトとして警察に中止させられたが、その目を盗んで翌20日朝8時、別所の街道沿いで30人の客の前で行われた。金が掛かった試合はどうしても決着をつけねばならなかったのであろう

2016-01-30 16:17:50
tentaQ4 @tentaQ4

豪州拳闘史2)翌年行われた再戦は、場所も期日も明示されなかった。警察は騎馬隊を待機させて警戒、数多くの馬車が深夜に移動するのを探知して出動し、4月19日朝6時、競走場で数千の観衆に囲まれたリングを発見した。試合が残酷な様相を呈するまで止めなかったのは、グローブ戦であったからか。

2016-01-30 16:18:36
tentaQ4 @tentaQ4

豪州拳闘史3)またもや警察を出し抜いて翌20日明け方に再開された試合は、悲惨な結果になった上、両選手は暴行容疑で逮捕され留置場に入れられた。起訴はしかし取り消された。ある豪州紙は、クイーンズベリー・ルールのグローブ・マッチは試合を長引かせて素手のファイトよりも危険、と書いた。

2016-01-30 16:19:27
tentaQ4 @tentaQ4

豪州拳闘史4)「南メルボルンの鍛冶屋」ウィリアム(ビル)・ファーナンは豪州王者にして、今で言うトラッシュ・トークの大家であった。当時、拳闘家達は手記の投稿やインタヴューで「新聞紙上戦」を繰り広げた。ファーナンは「ペンとインクを以って」ライバル達を負かす、と言われた。

2016-01-30 16:20:17
tentaQ4 @tentaQ4

5)シドニーは地元選手が負けそうになると客が暴動を起こして試合を警察に止めさせ、ノーコンテストにしてしまう怖い所で、ラリー・フォーリーがもう一人の豪州王者として君臨していた。当時メルボルンとシドニーは別の植民地にあった。ホテルを経営し、自前の体育館で興行を打つ名士であったが、

2016-01-30 16:21:49
tentaQ4 @tentaQ4

6)…若い頃はストリート・ギャングであった。“As happy as Larry”(ラリーのように幸せ)という英語の慣用句は、この成功した拳闘家を語源とすると言われる。白豪主義の豪州にあって、師のジェム・メイスと共に黒人選手を後継者として育てた。ピーター・ジャクソンである。

2016-01-30 16:22:35
tentaQ4 @tentaQ4

7)メイスとフォーリーの秘蔵っ子、ピーター・ジャクソンは1891年、ジム・コーベットと61ラウンド闘って決着つかず。黒人故にジョン・L・サリバンの世界王座に挑戦できず、歴史を転換させる役割は翌年、コーベットによって果たされた。 後に豪州の地でジャック・ジョンソンが世界王者となる。

2016-01-30 16:23:26
ちていのき @baritsu

シフティングは逃げる事です。この試合でジョンソンは打たれずにダウンするという手も使ってます。これはジョンソンも以前対戦相手にやられた手ですが、当時のルールの穴。だから審判が臨時に裁量したの @jwtwgtj @tentaQ4 @gryphonjapan

2016-01-30 19:03:45
ちていのき @baritsu

ブロートン→ロンドン→クインズベーリーの120年でボクシングは大名お抱え力士の相撲みたいなものからスポーツになるわけで、だから横綱相撲の美意識からフットワークという近代テク許容まで変化するんでいつの試合かが大事ですね@jwtwgtj @tentaQ4 @gryphonjapan

2016-01-30 19:18:46
ちていのき @baritsu

昔のボクシングリングは人方屋方式だったから大きさは不定。また輪を作る観客の所に飛んできた選手は押し戻された。ブロートンルールでセコンドが選手を開始戦まで連れていくことが出来たのはこの名残かしら。そしてこの両者にはリング中央で戦う(戦わせる)という志向が見えるよな

2016-01-31 01:50:50
ちていのき @baritsu

ベアナックルボクサーがスタンド・アンド・ファイトだったのは、パトロンや観客に対して男らしく、正々堂々戦う姿を見せるという美意識があったわけだけど、同時に人方屋リングという形式から生まれたスタイルとも取れる

2016-01-31 01:55:36