北アイルランド、デリー。39年目の1月30日。

The day innocence died. この日、マーゴ・ハーキンの記録映画、『デリー・ダイアリー』をロンドンでご覧になった @SteFoyLesLyonFr さんのツイートと、あの日と同じ時刻に同じルートをたどる「追悼行進」やパネル討論会の模様を伝えてくれているツイートを中心に。
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SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

Q:来年はとくに40年(という節目)だから。

2011-01-31 10:22:48
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

A:個人的には遺族たちの行進があるとは思わない。しかし、まだすべての真実が明らかになった訳ではないので、さらに議論は続くだろう。(として、さまざまな詳細に触れる)

2011-01-31 10:24:26
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

Q(どこかのジャーナリスト。今回おそらく新たな映像が加わっていたのだろう)どのように映像を集めたか?それらは今回のトリビューナルが始まる前から集めていたのか。

2011-01-31 10:27:14
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

A:徐々に。人々が写真やドキュメントを提供してくれることには時間がかかる。(どれがいつ集まったかとか、そんな詳細は言いようがないという感じに思った)

2011-01-31 10:29:15
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

さらに重要なことは、軍関係者が自らの資料を大量に破棄している。その中には現場でのきわめて決定的と思われる映像などもある。加えて、報道カメラマンたちが撮ったものも政府によって多く破棄されている。

2011-01-31 10:31:04
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

Q(同じジャーナリスト):この映画は DVD にするのか?

2011-01-31 10:31:59
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

A:それは何とも(苦笑)。製作者や資金提供者、配給者との関係もあるのでという意味で。

2011-01-31 10:33:39
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

同時に、映画に登場するガンマンや遺族たちの意向も考慮しなければ、、、。

2011-01-31 10:34:34
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

Q:映画を創っていく過程で、これ以上は言えない、描くべきではない、と思ったことはあるか。どのようにあらゆる方面からのプレッシャーを処理して来たか。(ジャーナリスト名乗らずの人)

2011-01-31 10:35:59
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

A:Republican Army からのプレッシャーも強かった。「口をつぐんでいろ」というような類いだ。また、サヴィル調査委員会においても、あらゆる方面からの政治的プロパガンダがとてもはげしく、大変に慎重にならゼルを得なかった。

2011-01-31 10:40:08
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

つまり、サヴィル・インクワイアリを信頼していなかった。したがって、映画の製作編集にあたっては個人的、主観的であると同時に、客観性をもたせることにも努めた。非常に困難だった。

2011-01-31 10:43:32
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

何が真実なのか自分にもちろんわからない点が多い。不眠に悩まされたこともあった。住んでいる家の大家からは「あなたは犠牲にしているものが多すぎる」ともなぐさめられた。(この発言のあとで数十秒、回顧するように沈黙)

2011-01-31 10:47:17
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

委員会の証言席では(反対側)の役人から微笑まれたり、委員会の後では、Republican からまったく別の新しい情報を耳打ちされたりいろいろあった。本当に真相はわからない。

2011-01-31 10:48:45
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

Bloody Sunday - A Derry diary の上映。デリー出身の監督マーゴ・ハーキンFrontline Club での質疑応答はこれくらいで終了。ほぼ予定時間どおり。その後は個々人が残ってハーキンに語りかけていた。多くはねぎらいの言葉。

2011-01-31 10:52:49
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

私もハーキンに簡単にねぎらいのことばをかけて退出。私がそこにいたおそらく唯一の非白人だった。彼女からはふつうに「わざわざ足を運んでくれてありがとう」と丁寧な返事が返ってきた。

2011-01-31 10:56:27
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

ハーキンの態度は、感傷的になることを避け、映画監督としてのそれを全面に出していたという印象だった。RT したように観客のなかには元英軍兵士もいたようだ。フロントクラブのあるパディントン周辺は完全にレバノン系を中心としたアラブ人街と化している。

2011-01-31 11:03:11
SteFoyLesLyonFr @SteFoyLesLyonFr

寒風のなか、熱くて冷たい気持ちをもてあましつつアイリッシュパブをさがしてさまよった、、、。

2011-01-31 11:04:37
nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など @nofrills

【過去記事】"1972年1月30日、20歳でアートスクールの学生だったマーゴ・ハーキンは、帰宅して見たテレビで報道されていたことと、自分の目で見たことのあまりの違いに…": マーゴ・ハーキン、『デリー・ダイアリー』を見て、当時の報道を見る http://t.co/5ZytS5e

2011-01-31 11:33:52
nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など @nofrills

どうしてSDLPの大きな発言がないのか。せめて「最後」とされたことについては…残酷すぎる。

2011-01-31 10:29:46
nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など @nofrills

http://bit.ly/fQ4IVa しかもパレスチナ?シン・フェインは、そんな形骸化した「連帯」を今なお?Palestine Papersで欺瞞がさらけだされた後も?それも、あの日あの場にいたMMcでなくGA?それで「最後」?「あとは歴史になりました」?

2011-01-31 10:35:19
nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など @nofrills

1972年1月30日、北アイルランド、デリーで、当局が出すはずもない許可を得ずに公民権要求デモが開催された。主催者は宗派を超えた公民権運動の組織で、IRAはデモには関わっていなかった。お祭りムードで始まったデモには英国などのメディアのカメラもたくさん入っていた。(続

2011-01-29 18:14:39
nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など @nofrills

続)平和的デモ隊のルート上には英軍がバリケードを築いていた。デモ隊は進路変更を余儀なくされた。デモに参加していた若い子たちが腹いせのように投石を始めた――ここまでは、まったく「いつも通りのデリー」だった。しかしその直後、英軍はデモ隊に発砲を開始した。(続

2011-01-29 18:17:01
nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など @nofrills

続)その日、デリーでは13人が英軍に撃たれて死んだ。14人目も半年ほど後に死んだ。英軍の暴力(銃撃や装甲車の激突)で14人が負傷した。 http://bit.ly/fQG51T 事件直後、英軍は事態を調査した。そして出した結論は「死亡した人々は武装、英軍は自衛のために発砲」(続

2011-01-29 18:21:09
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