古代ギリシア・ローマの狼 ―神話、人々、そして人狼―

「屋敷の周りには、山に棲む獅子や狼がいたが、これはキルケが恐ろしい薬を盛り、魔法によって獣に姿を変えた者たちで、人間に向って躍りかかったりすることがないばかりか、長い尾を振って立ち上がってくる」(ホメロス『オデュッセイア』10巻212-215節、松平千秋訳) 古代世界の人々が狼をどう見てきたか、どんな記録があるのかを古典古代の史料から検討します。
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

(21)狼の利用方法は他にもあります。プリニウスの『博物誌』によれば、狼の内臓は薬としても用いられたようです。こういう薬をどうやって入手したかまでは分かりません。「ハリー・ポッター」に出てくるノクターン横丁っぽいものでもあったんでしょうか…。

2016-04-25 00:59:38

 プリニウスは例えば狼の肝臓は咳や肝臓および肺の痛みに(28.193, 197, 230)、狼の胆汁は便秘の解消に(28.203)にそれぞれ効果があるとします。本当かいな…。まぁ、狼に限らず、古代世界においてだいたいの動植物は何らかの薬に利用されました。いずれも、どれほど効果のある薬だったかまでは分かりませんけれどね(汗)
 また、狼のヒゲは呪術の道具に(ホラティウス『風刺詩』1.8.40-45)、これとは逆に、解呪の為にも狼の部位が用いられたかもしれませんし、お守りにもなったようです(『博物誌』28.157, 211)。とりわけ、狼の歯は人間用のお守りにも使われたようですが、馬に与えるとその馬は最高に素早くなると信じた人もいたようです(ティモテオス断片 7 (Haupt, M., “Excerpta ex Timothei Gazaei Libris de Animalibus”, Hermes, 3-1, 1869, S. 9 Z. 9-10))。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

(22)仮に狼が夢に出てきた場合、それは強盗とか敵の存在を示すものだと夢判断師のアルテミドロスは書物に書き残しています。ただ彼は、「自分の顔に狼の頭がついている夢」は吉兆であるとしていますから、解釈はいくつかあったようです。

2016-04-25 01:00:15

 アルテミドロスの夢判断を整理すると、
・「狼の耳がついている夢」…他人からの中傷のせいで陰謀を企てられる(『夢判断の書』1.24)。
・「狼の頭がついている夢」…難しいことに挑戦し、成功する吉兆(同1.37)。
・「狼そのものが出てくる夢」…堂々と敵が襲い掛かってくるであろうこと、また、追いはぎや強盗の存在を暗示する(同2.12; 4.56)。
となります。
 凶兆としての例を挙げると、トロイア戦争に参加したトラキア王レソスの馭者は夢の中で「王の馬に狼が乗っている」幻を見ます。馭者は恐怖で起きあがりますが、主であるレソスは敵の手にかかって殺された後でした(エウリピデス『レソス』780-803)。狼はだいたい敵か、害をなすものの象徴として夢に現れたようです(パウサニアス『ギリシア案内記』4.19.5)。

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(23)ここで一旦『狼と香辛料』に話を戻しましょう。ホロは普段は人間の少女の姿をしていますが、正体は巨大な賢狼であるという設定でした。狼変身譚でよく見られる、人が狼に変身してしまうのと逆のパターンですね。

2016-04-25 01:00:44

 中世文学における狼変身譚のなかには日本語で読めるものもあります。列挙いたしますと、
・逸名作家「アーサー王とゴーラゴン王」『立命館文学』(617) 2010, 47-65頁
・逸名作家『ヴォルスンガ・サガ』東海大学出版会 1979, 15-21頁
・ギラルドゥス・カンブレンシス「聖職者と話したオオカミ」『アイルランド地誌』青土社 1996, 130-136頁
・ティルベリのゲルウァシウス「狼になった男たち」『皇帝の閑暇』講談社学術文庫 2008, 246-248頁
・マリー・ド・フランス「狼男」『十二の恋の物語』岩波文庫 1988, 90-102頁
といったところです。これらの解説としては、池上俊一『狼男伝説』朝日選書 1992, 13-79頁を挙げておきます。かの阿部謹也氏も狼男に関わるものを幾つか書いています(「人間狼の伝説」『中世の星の下で』影書房 1983, 258-272頁; 「「荒野の狩人」」『逆光のなかの中世』日本エディタースクール出版部 1986, 27-31頁; 「ヨーロッパ中世賤民成立論」『中世賤民の宇宙』筑摩書房 1987, 184-194頁; 『ヨーロッパ中世の宇宙観』講談社学術文庫 1991, 169-175頁)。

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(24)古代ギリシアにも狼変身譚はありまして、最古の例は『オデュッセイア』に登場する、アイアイエ島に住む魔女キルケです。彼女は薬と魔法で人間を狼や獅子や豚に変え、さらに動物を元の人間に(多少ハンサムにして)戻すことができたようです。 pic.twitter.com/1MKqVFiUA3

2016-04-25 01:01:20
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図版出典: Wikimedia Commons 「Edward Burne-Jones - The Wine of Circe, 1900」

 ホメロス『オデュッセイア』10.212ff
 このエピソードは人々の興味を惹いたのか、古代の作家たちはキルケについての作品を書いたり、言及したりしています(アナクシラス『キルケ』断片12; アテナイオス『食卓の賢人たち』10f; ディオン・クリュソストモス8.21-26; 13.57-59; ウェルギリウス『アエネイス』7.5ff; オウィディウス『変身物語』14.254ff; ボエティウス『哲学の慰め』4.M3.13-14)。
 アイアイエ島の場所がどこかまでは分かりませんが、イタリアのチルチェーオ岬には「魔女キルケの洞窟」なる場所があるそうです。

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(25)ヘロドトスの『歴史』の4巻105節には、「スキュティア地方(今のウクライナあたり)にネウロイ人が住んでいる。彼らは年に一度狼の姿となって、数日間その姿で過ごす」といった記述が見受けられます。

2016-04-25 01:01:46

 ローマ時代の作家、ポンポニウス・メラも、ネウロイ人に関する同じような話を伝えます(『世界地理』2.1.)。ちなみに、ネウロイ人がどこに住んでいたかについてルイバコフは、プリピャチ川(Припять)の南からドニエプル川の西、そして西ブグ川(Западный Буг)までの間であるとしています(Рыбаков Б.А. Геродотова Скифия. M., 1979. С. 175-6)。
 また、ミンズやグラーコフは狼変身譚がベラルーシやウクライナ北部に伝わっていたことから、ネウロイ人は古代スラヴ人だったのではないかと考えたようです。興味深いですが、ネウロイとスラヴを結びつける確実な証拠は無く、民族名の特徴からスラヴ人ではなく東バルト人ではないかという説もありますし、いずれにせよ根拠薄弱です(Minns, E.H., Scythians and Greeks, Cambridge, 1913, pp. 102-103; Граков Б.Н. Скифы. M., 1971. С. 120。東バルト人説についてはGimbutas, M., The Balts, London, 1963, pp. 97-101。ネウロイを含め、スラヴ語圏における人狼に関わる記録・文学を整理したものに、伊東一郎「スラヴ人における人狼信仰」『国立民族学博物館研究報告』6-4, 1982, 767-796頁)。いずれにせよ、この記述はスキュティア地方に住んでいた一集団の、一種の通過儀礼や儀式か何かだったと考えるのが無難でしょう。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

(26)ほかにもアルカディア王リュカオンが嬰児を供犠に捧げたため、ゼウスの怒りに触れ、狼になった話もあります。これは古代世界ではそれなりに有名だったようで、パウサニアスが『ギリシア案内記』の8巻2章で言及したほか、複数の作家が似たようなエピソードを伝えています。

2016-04-25 01:02:12

 パウサニアスはリュカオンの話に触れた後、「わたくしはこの話を信じる(キリッ)」と述べます。というのも、昔は神と人間の距離が近く、信賞必罰が明確であったためだとして、その根拠に神になった人、不死になった人、さらに星座になった人を挙げます。「んなアホな…」と無視してもいいかもしれませんが、伝承に対するパウサニアスの態度を示す興味深い箇所ではないかと思います。
 この話には少し続きがありまして、なんでも、そのリュカオンが作ったとされるアルカディアの「ゼウス・リュカイオス神殿」で犠牲をささげた者は、誰でも狼に変身してしまうというのです。彼は『ギリシア案内記』のほかの箇所でも、狼に変身したことがあるという異色の経歴を持つボクシング選手に言及しますが、こちらはというと「嘘っぱちである」として退けています(『ギリシア案内記』6.8.2)。哲学者のプラトンも、対話篇『国家』において狼変身譚をソクラテスに語らせます。それはゼウス・リュカイオス神殿における神への犠牲獣の中には人間の内臓が混じっており、もし、人間がその内臓を食べてしまったら、その人は狼になってしまうというのです(565d-e)。歴史家のポリュビオスも自身の著作においてプラトンの狼変身譚を引用するものの、詳しい事までは語りません(『歴史』7.13)。
 このようなギリシア人の作家に対して大プリニウスは、きちんとどういう伝承かを紹介したうえで「こんなんありえんわ」と結論付けます(『博物誌』8.80-83)。この他、オウィディウスの解釈によると、リュカオンが神に対して無礼を働き、殺害を企て、さらに人肉を供そうとした為、神罰として狼になったとします(『変身物語』1.209-239; 2.493-495)。ヒュギヌスによると人肉を混ぜたのはリュカオンの息子たちであるとします(『神話集』176)。このようなリュカオンの狼への変身について検討したものにBuxton, R., Myths and Tragedies in their Ancient Greek Contexts, Oxford, 2013, pp. 44-50.

図版出典: Wikimedia Commons 「 Transformed into a Wolf LACMA M.71.76.9」

アザラシ提督 @yskmas_k_66

(27)メデイアが若返りの薬を作った時のことですが、彼女は薬草や、何だかわからないもろもろのほか、人狼のハラワタを鍋に入れていました。結果的に若返りの薬は無事完成するわけですが、この場面を詠った詩人オウィディウスが薬の製法を端折った為、細かな成分は謎につつまれたままです。残念。

2016-04-25 01:03:03

 オウィディウス『変身物語』7.238ff
 ウェルギリウスも、メデイアが住んでいたとされる黒海東岸のコルキス王国を含む黒海沿岸地方では、食べたら狼に変身できる毒草がたくさん生えていると詩の中で詠っています。かなり万能な毒草のようで、死者を呼び出すのにも転移魔法にも使えるみたいです。なお、この詩ですが、魔術を使って恋人を取り戻そうとする女性のセリフから成るもので、本まとめでも複数回言及いたしましたテオクリトスの『牧歌』の第二歌から着想を得たものと考えられています(ウェルギリウス『牧歌』8.95-99)。

図版出典: Wikimedia Commons 「Frederick Sandys - Medea, 1866-1868」

アザラシ提督 @yskmas_k_66

(28)ペトロニウスは『サテュリコン』の62節で、人がどのように狼に変身するのか、その現場に遭遇した話を登場人物の一人に語らせます。話者は「信じるか信じないかは皆さん次第だ」とも言いますが、その話を聞いた人たちは真実味のある話だと捉えたようで、えらくビビッてしまいました。

2016-04-25 01:06:47
アザラシ提督 @yskmas_k_66

(29)ローマの時代において、人が狼のようになってしまうことは病気の一種として扱われたようです(アミダのアエティウス『医療書』6.11)。人狼は病であるとして解決を試みたのでしょう。なお、『狼と香辛料』で言及された「悪魔憑き」の概念や、関連する刑罰が登場するのはずっと後のことです

2016-04-25 01:07:36

 アエティウスが典拠としたものはシデのマルケルスの医療書だったようです。夜明けまで墓でうろついたり、目がうつろだったり、涙を流さなかったり、その他もろもろの症状が出たらそれは人狼の病であると考えたようですが…どうなんでしょう(;^ω^) ビザンツ時代の辞書『スーダ』によると、マルケルスは42冊の医学書を残し、人狼に関するものもその中に含まれていたとのことです(『スーダ』s.v. Μάρκελλος)。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

(30)以上、古代神話と狼、古典に表れた狼、そして狼変身譚などを史料を頼りにして紹介してまいりました。ツイートのきっかけである『狼と香辛料』の舞台となった地域・時代と古代地中海世界は、社会も文化も大きくかけ離れていますが、狼と人類の関わりの一端を提示できたんじゃないかなと思います

2016-04-25 01:08:08