復員船「葛城」 元乗員の御話
- hirataitaisho
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「葛城は辣韮で走ると言われたくらいに樽の中に辣韮の漬物があった」 空母には食料を保存する設備はあるけど、基本的に長期の任務を前提としている訳では無く、短いスパンでの任務を前提としているのでそのスペースはそれほど大きいものでは無かったとの事で保存出来るものは限りがあったそうです。
2016-05-07 22:52:31※辣韮・・・らっきょう
そうした条件下の中で食事を準備するのですが、復員者を含めた周囲からは文句ばかりだったとの事。 「葛城」は大型の艦であり、航海中も大きく揺れる事も滅多にありませんでしたが、この事が逆に仇になってしまったそうです。 小型の艦であれば揺れの大きさから船酔いする復員者も多かったとの事。
2016-05-07 22:58:10しかも、広々とした甲板の上を歩く事が出来る上に身体を動かす事も出来たのでお腹がすくばかり。 収容した人数の都合もあり、充分な量を食べさせる事も出来なかった事も含めてそうした事情が積み重なり、復員船としての「葛城」の評判の悪さにも繋がっていたのだそうです。
2016-05-07 23:03:01戦時中とは違う部分での苦労があった特別輸送艦「葛城」と乗組員の方々……。 『最後の空母』が『最後の役目』を果たしたと言うこの事は決して忘れてはならないものだと思います。 多くの人々を復員する役割を担った「葛城」もまた、大切な航跡を歩んだ艦です。
2016-05-07 23:39:42その経歴から多くが語られる事は無いかもしれないけれど……共に在った乗組員の方の御話の中にあった事はとても大切なもので。 もしかすると、今のこの時にこの場に居なかった方も居られるかもしれません。 復員船として活動したその役割は戦場を駆け抜けた数多くの武勲艦とは違いますが……。
2016-05-07 23:46:06「葛城」は何処か特別な艦だったのかもしれません……。 御話を伺わせて頂いた方より託された「葛城」の航海日誌を読みながらそのように感じます。 特別輸送艦として航跡を歩んだ「葛城」と復員輸送に従事した関係者の方々に思いを馳せながら、此度の取材の御話を締め括りたいと思う次第です。
2016-05-07 23:53:41特別輸送艦となった航空母艦葛城で復員してきた人々 JAPANESE REPATRIATES, OTAKE | The National Archives Catalog catalog.archives.gov/id/64471 pic.twitter.com/ROcM25pE8s
2016-07-17 15:53:27数少ない娯楽、藤山一郎、「鹿島」と蝋燭
「葛城」の乗組士官の方から伺わせて頂いた御話について更に補足とちょっとした御話。 復員船としての活動は第一次から第八次までに及びますが……第一次は送還人員2579名、行動期間8日と11時間、1124浬の行程。第二次は送還人員4999名、行動期間16日と21時間、5824浬の行程。
2016-05-08 06:53:52第三次は送還人員4979名、行動期間18日と19.5時間、5829浬の行程。第四次は送還人員8518名、行動期間18日と9時間、5454浬の行程。第五次は送還人員6587名、行動期間12日と20時間、4472浬の行程。
2016-05-08 07:07:00第六次は送還人員8579名、行動期間18日と16時間、6563浬の行程。第七次は送還人員6560名、行動期間17日と18時間、5688浬の行程。第八次は送還人員8598名、行動期間26日と16時間、7459浬の行程。
2016-05-08 07:14:15格納庫等をはじめとした改装工事により大幅に収容スペースが増加したとはいえ、空母「葛城」の定員は約1500名程だった事を考えると吃驚する程の人数を送還している事が解ります。 その上で食料、真水等の苦労があり、復員者の方々を収容した後の航海中の時間もありました。
2016-05-08 07:39:19主に陸軍の方々を送還したのですが、大きな手製のリュックサックを背負って乗り組んで来たそうで「何が入っているのだろう」と思ったそうです。 しかしながら、その答えは航海中に明らかに。航海中は特に娯楽が無いのですが、陸軍の方々は娯楽用に麻雀牌を持ち込んでいたとの事です。
2016-05-08 07:51:17しかも、器用に作り上げられた手製の麻雀牌。航海中の時間はこれを使って甲板上で時間を潰していたそうです。 薄暗い朝の時間帯から復員者の方々の麻雀が始まるのですが、日が高くなると飛行甲板の露天では麻雀も無理な話でした。
2016-05-08 08:00:15しかしながら復員者の方の準備は周到で四隅に柱を立て上に天幕を張り、それを四方から引っ張って甲板に止めて完全な日除けを作ってしまったそうです。 明らかに艦内の資材では無いそれを何処から、と思ったそうですが背負ってきた荷物の中身がそうした機材だった事を考えると納得したと仰っていました
2016-05-08 08:12:45第七次復員輸送の時、レンバン島にて今は亡き藤山一郎氏を「葛城」にて復員。 歌手として南方にて慰問活動をしていた時に終戦を迎えた藤山氏は此処で「葛城」と出会い、乗り組まれた昭和21年7月15日から本土に入港するまでの前日、7月24日まで艦内に歌を放送して下さったそうです。
2016-05-08 08:47:10藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。
1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。
特に最終日である7月24日の夜は「私が軍歌を歌えるのは今夜限りだと思いますから、思い切り歌います」と1時間強の間、大きなアコーディオンを前に下げてマイクの前に立ち通しで歌って下さったとの事で、この時の事は誠に印象に残っていると仰っていました。
2016-05-08 09:00:50甲板士官であり御役目柄、藤山氏の艦内放送では同室にて立ち会い、その肉声を直に聞く事が出来たそうです。 藤山氏ほどの道に達した方の雰囲気は成る程、と感心するものが多く、特に歌っている時の表情の変化と眼の輝きには心が打たれるものがあったとの事。
2016-05-08 09:06:44困難な役目でしたが、こうした印象に残る出来事も沢山、あったとの事で他にもスマトラ方面での第八次復員輸送の時に近衛師団を復員。 凱旋将軍のように昭和21年10月10日でも階級章を付け、毎朝の朝礼、体操を旧のままの姿で行っていたそうです。
2016-05-08 09:16:22第八次の航海ではスマトラ、バンコクを経由した後に香港に立ち寄り、この時に同じく復員船として活動していた練習巡洋艦「鹿島」と一緒になったとの事。 台湾海峡にて損傷した「鹿島」は「葛城」の入港が完了した事を確認すると「蝋燭を支給されたし」との信号を送ってきたそうです。
2016-05-08 09:26:47この時に「鹿島」が損傷していた箇所が発電機室で艦内電源は使用出来ず、陸上電源もサイクルが間に合わないとの事で受電が出来ない状態にあったそうです。 明かりも蛍光灯をはじめとした最新の設備であった「葛城」では蝋燭を使う機会も少なかったので、可能な限りの蝋燭を「鹿島」に支給しました。
2016-05-08 09:31:19