名前を取り戻した男#1 彼とは違う彼◆1
_ひとには色々な自分がいる、と後にエンジェは思った。もちろんエンジェ自身にもたくさんのエンジェがいる。それに気づくかどうかは、そのひと次第かもしれない。 気づかなくても何の問題もなく暮らすひとも多い。振り返ってみると、気づく事件だったとエンジェは思う。 1
2016-06-05 16:54:21「オハヨウ!」 いつもの朝に、いつものミェルヒの声。エンジェはベッドの上で身をよじった。カーテンの隙間から朝日が差している。同居している集合住宅のあちこちから、朝の支度の音が響くオーケストラ。 ガシャガシャと赤錆の鎧を揺らしてミェルヒが部屋に入ってきた。 2
2016-06-05 16:59:02_エンジェは訝し気な顔でミェルヒを見る。 「誰?」 「ハハ、寝ぼけてるのかよ。僕だよ、ミェルヒだよ」 錆びだらけなバシネットのバイザーを開き、ミェルヒが笑う。 「違う。あなたはミェルヒだけどミェルヒじゃない」 声を聴いただけで、表情を見ただけで分かった。 3
2016-06-05 17:04:16_エンジェとミェルヒは二人組の冒険者だ。職業騎士のミェルヒと、冒険画家のエンジェ。もう何年も一緒に組んでいくつもの冒険を繰り返していた。男のミェルヒと同居しているのに、28にもなる女性のエンジェは裸で寝るくらいの信頼がある。 「ミェルヒをどこにやったの」 4
2016-06-05 17:10:21「えーと……」 「あなたは誰?」 「あの……」 「誰?」 とうとうミェルヒは折れた。肩をすくめて、疲れた笑みを浮かべる。 「降参だ、降参。初めてだよ、見るなり正体を見破られたのは」 エンジェは毛布を裸体に巻き付けて、着替えのある箪笥に這って行く。 5
2016-06-05 17:17:33「そうさ、僕は別人だ。けれども、この身体も記憶も癖も言葉遣いも、確かにミェルヒのものだよ。ただ、魂だけが違う」 「やっぱり」 毛布の中で暴れているエンジェ。それを跳ねのけると、いつものエンジェ……ネズミ色・絵の具汚れ・ワンピース姿になる。 6
2016-06-05 17:22:07(魔法犯罪でしょ……面倒ごとに巻き込まれた!) 「ミェルヒは大丈夫なの?」 エンジェは思わず出かかった「通報」の言葉を思いとどまり、別の言葉に直した。こういう時に相手を不安にさせる言葉は言わない。 「大丈夫だ。頼む、少しの間だけなんだ。協力してくれ!」 7
2016-06-05 17:28:55「まぁ、ミェルヒのためなら協力を惜しまないけど……私も冒険者だよ。対価無しに力だけ借りたいってもねぇ……」 危ない橋だが、相手に弱みがあると察した以上商売っ気を出さずにはいられないしたたかさをいつの間にかエンジェは手に入れていた。 8
2016-06-05 17:34:31_ミェルヒは赤錆の鎧を軋ませて窓際に移動した。さりげなく外の様子を伺い、安堵の息を吐く。 「人の人生を借りるんだ。当面の生活費は全部僕が出そう……ミェルヒの財布じゃなくて、本当の僕の財布からだ。教会の口座にあるから、引き出して使うよ」 そうして、奇妙な生活が始まった。 9
2016-06-05 17:38:47_そう、奇妙な生活が……。 「お姉さん、もう一杯ビールお代わり!」 「ちょっと何杯飲むつもりなの……」 ミェルヒは、酒場で毎晩酒を飲んでいるだけなのだ。ひとの身体を借りて、やっていることは何の変哲もない酒浸りだけだった。 10
2016-06-05 17:44:30【用語解説】 【教会】 グラセウ・ナリア教の宗教施設。グラセウ・ナリアは神ではなく聖人なので、実在する神を信仰する宗教とは少し違う。寄付金を集め肥えたグラセウ・ナリア教は金融事業を始め、教会に口座を開設している。曰く、口座に貯蓄することで気持ちに余裕ができ、徳が高まるという
2016-06-05 17:48:55