ナポレオンの戦略・戦術

ナポレオンの戦略・戦術について
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喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

ナポレオンが敵軍の動きを予め全て計算の上で戦争したというのは作り話。戦場での現実の展開に即興で対応できたから強かった。

2016-07-03 00:44:17
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

ナポレオンは、大変な読書家で戦略書を読みあさったが、行動の人であり戦略思想家ではなかった。

2016-07-03 00:45:02
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

無名将校時代に勉強したサックス「わが瞑想」、ブールセ「山地戦の原則」、ギベール「戦術概論」、デュ・テイユ「野戦における新砲兵の運用」の理論を実行したにすぎない。

2016-07-03 00:45:17
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

軍事的天才たる所以は不確実性の支配する実戦で常に勝利した実行力にある。 ナポレオンは「戦争術とは単純である。すべては実行の問題だ」と信じていた。

2016-07-03 00:45:23
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

戦力の集中とは、戦力を一箇所に集めることではなくて、必要に応じて戦力を柔軟に融通し合えること。「機動力を利用し兵力を集中する要諦は、その融通性と臨機応変性にあって、決して兵力の凝集化にあるのではない」(リデルハート)。

2016-07-03 00:46:40
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

将軍ボナパルトは「機動力発揮と奇襲」という彼の帝国を創設するに足る理論を適用したのに反し、皇帝ナポレオンは戦力の単純な「量の集中」という彼の帝国を破滅に導く手腕を発揮してしまった。

2016-07-03 00:46:58
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

それにもかかわらず、クラウゼヴィッツ等がナポレオンの戦略を誤解し「量の集中」を強調したため、第一次世界大戦の全面戦争の失敗につながった。

2016-07-03 00:47:06
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

ナポレオンは常に大胆な戦略を取ったが、自軍根拠地との背後連絡線を敵軍に切断されてはならないという原則は順守して機動した。「大胆と無謀は異なる」。

2016-07-03 00:47:55
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

仮に戦闘で敗北しても自軍拠点との補給連絡線を切断されない場所から敵軍を攻撃する。これは概して、自軍の補給連絡線正面に予備軍を配置しつつ、敵軍の補給連絡線に向かって、即ち敵軍の翼面ないし背後を目指して機動することを意味している。

2016-07-03 00:48:50
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

一つの戦闘で敗北しても戦略的には戦役を立て直すことができるところがポイント。オプションを用意しているという点で戦略的であると言える。1796年のロディの戦い、1800年のマレンゴの戦い、1805年のウルムの戦いでナポレオンはこうした戦略的機動を行っている。

2016-07-03 00:49:00
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

各個撃破というのは、多方面から自軍を包囲しようとする敵に対する守備的な戦い方。だから1796-97年の第1次イタリア遠征や1814年のフランス戦役では綺麗に決まった。

2016-07-03 00:49:25
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

自軍の主力を以って敵軍の個別の戦力と交戦するように機動する。ナポレオン曰く「全軍を敵の数箇師団に差し向けることのできるような具合に機動するがよい。こうすれば敵軍の半数の軍隊をもってしても君は常に戦場では敵よりも強いであろう。」

2016-07-03 00:49:47
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

相互連絡線の確保できていない分進合撃は各個撃破される。第1次イタリア遠征でナポレオンがオーストリア軍を撃破したのはこの原理に基づく。

2016-07-03 00:50:35
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

各個撃破の内戦作戦も分進合撃の外線作戦も会戦での数の優位を確保するためにいかに機動するかの会戦が始まる前の戦略の話。

2016-07-03 00:50:44
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

ナポレオン曰く「勝利によってもたらされる利益はまさに倍増され損害を十分に償ってくれるから状況により必要とされる犠牲をおそれてはならない」

2016-07-03 00:52:35
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

ナポレオンは、戦場での数の優位を確保するため、分散配置していた師団を、戦場となる地点に向かって徹夜で急行させ、そのまま戦闘に投入したりした。このような用兵であったため兵士の消耗は激しく、ナポレオンが指揮する軍の1ヶ月の損失は、通常の軍の3ヶ月分に相当したという。

2016-07-03 00:53:02
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

ロナト・カスティリーオーネの戦いで、分進するオーストリア軍がガルダ湖が障壁になって相互連絡が取れないことを利用したり、アルコレの戦いで沼地を戦場に選定してオーストリア軍の兵数優位を相殺したりと、ナポレオンは戦場の地形の特性を自分に有利なように利用するのに非常に長けていた。

2016-07-03 00:53:30
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

「編制」中隊140名×6=840名=大隊 →大隊(840名)×4=3360名=連隊 →連隊(3360名)×2=6720名=旅団 →旅団(6720名)×2=13440名+砲兵・騎兵=師団(約20000名) →師団(約20000名)×2~4=軍団

2016-07-03 00:55:04
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

師団編制は1740-8年のオーストリア継承戦争で試されている。これらが広まらなかったのは、大軍を分散し、移動展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が、思うように手に入らなかったため。革命よりも政府と測量士の努力が構想を現実に変えた。

2016-07-03 00:55:32
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

現地調達は、クレヴェルトが指摘するように17-18世紀において普通に実施されていた。むしろクレヴェルトは、ナポレオンの方こそが後方からの持続的な補給を可能にしようとした最初の軍人であったと指摘している。

2016-07-03 00:55:55
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

機動力は革命により軍の規模が劇的に拡大し、要塞が無力化されたため獲得された。そのため後年、地理的要因から多くの攻城戦を余儀なくされたスペインにおいては苦労した。

2016-07-03 00:56:22
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

1814年のフランス戦役で負け越したナポレオン軍は連合軍によるフランス国内進入をあっさり認めてしまう。

2016-07-03 00:56:53
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

その一つの原因はナポレオンが野戦軍による機動戦を重視したあまり要塞による防御を軽視したため。これには青年将校時代に読んだギベールの影響が大きい。クラウゼヴィッツは戦争論の中でフランスの要塞構築の仕方は非常にまずいと論評している。

2016-07-03 00:57:00
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

1796年-1797年イタリア戦役。ナポレオン曰く、「敵将は皆経験に富み、決して凡庸ではないが、彼らは一時に多くのことを考えすぎた。私は常に敵の主力のことだけを考えた」

2016-07-03 00:58:45
喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010

「戦術の要訣は、どの場所に、いかなる兵力を、いつ、投入するか、を判断するにある」

2016-07-03 00:59:27
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