情報の断片とその集合を「読解」すること

あるいは「日本語圏でのTumblrにおけるテクストリブログに違和感を感じるのはなぜか、それは自分だけなのか」。
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いち @ichi_3

画像ならまだしも、やっぱりテクストの断片を切り取ったものを公開するってのはどうなのかなあと思う<Tumblr 自分ひとりだけで楽しむなら別だけど。TwitterのFavと同じ感覚なのかもしれないけど、Twitterは元発言が最初から短いので切り取りじゃなくてまるごとだし。

2010-03-20 22:17:53
いち @ichi_3

私はずっと文章の一部だけ抜き出すな、必ず全体のコンテクストの中で読めと教えられてきたんだが、そういう考えはもう古いのだろうか。これだけいろんな情報が断片化されてくると。

2010-03-20 22:19:03
CHIHYA @CHIHYA_P

どれだけ入力に追いつけるか(出力できるか)は自身の経験によるところが大きいかも。逆に入出力が普通に行えるって人にはそれが全て整合してる。 @ichi_3 私はずっと文章の一部だけ抜き出すな、必ず全体のコンテクストの中で読めと教えられてきたんだが、そういう考えはもう古いのだろうか。

2010-03-20 22:22:12
いち @ichi_3

@CHIHYA_P 量的なことではなくて、コンテクストから離れた断片的な情報だけを入力すること、それが普通になっていくことの危険性をふと思ったのですが…(読み違えてたらすみません

2010-03-20 22:35:15
CHIHYA @CHIHYA_P

単語に圧縮された意味が共通語として機能する反面、当然ながら言葉に込められる意思は膨らみます。それが知る者と知らざる者の間で疎外を生む反面、より多くの情報をやり取りできる。そこで大切になるのはプロトコルの機能といった風情かなと感じました。 @ichi_3 コンテクストから離~危険性

2010-03-20 22:49:25
CHIHYA @CHIHYA_P

例えば「萌え」とか^^ @ichi_3

2010-03-20 22:50:21
いち @ichi_3

@CHIHYA_P なるなる。単語レベルでは確かにそうなのかもしれません。「プロトコルの機能」とは例えば具体的にどういうものでしょう?

2010-03-20 22:56:53
CHIHYA @CHIHYA_P

教育かと。圧縮の過程を逆にたどり、単語を展開しその意味を解析し、その時一般化されている部分から教導する。当然、習熟は平等にはなり得ない。これを放置するとそこに認識の壁が出来る。これが危険性の正体(教育によって乗り越えられる類のもの)では? @ichi_3 「プロトコルの機能」と~

2010-03-20 23:07:51
いち @ichi_3

@CHIHYA_P なるほど…。その一連の過程そのものの存在を、既に知っている人はいいけど、それを教育において不可欠な要素とする、という発想が今はまだ大きく欠落しているのでは。情報の量は圧倒的に増えていくのにそれを読み解く力が追いつかないアンバランスを感じます。

2010-03-20 23:17:47
CHIHYA @CHIHYA_P

です。映像にも視覚的文法があり、これを繋いで意味を込める作業が編集ですが、ある映像に込められた意味を分解するという事が意味を込める側の表現に不都合という点で疎外されたりもするわけで、 @ichi_3 既に知っている人はいいけど、それを教育~発想が今はまだ大きく欠落しているのでは。

2010-03-20 23:21:29
CHIHYA @CHIHYA_P

一見意味のないテロップやアングルにすら隠喩はこもっているわけで、こうした側面には語学的な検証が必要と言えます。 @ichi_3

2010-03-20 23:27:06
CHIHYA @CHIHYA_P

小説の行間を読むように映像を読む能力。本能的感受性の中でそれを学びうる人は小説が好きであったりする人ですが、小説が嫌いな人も語学を学ばされる意義があるわけです。 @ichi_3 情報の量は圧倒的に増えていくのにそれを読み解く力が追いつかないアンバランスを感じます。

2010-03-20 23:27:20
いち @ichi_3

興味深い。個人的な印象ですが、比較的言語能力に長け、ことばに敏感な人は、デコレーションやアングル等の視覚情報上の付加的意味情報にも敏感な気がするのですがどうなんでしょう。言語であれ視覚情報であれ「読解力」というか。RT @CHIHYA_P: 小説の行間を読むように映像を読む能力…

2010-03-20 23:36:59
CHIHYA @CHIHYA_P

文学を例にしますが、表現手法を経験から学ぶ人は文学を嗜む人にもいると思います。 @ichi_3 比較的言語能力に長け、ことばに敏感な人は、デコレーションやアングル等の視覚情報上の付加的意味情報にも敏感な気がするのですがどうなんでしょう。

2010-03-21 00:03:08
CHIHYA @CHIHYA_P

ただ、斜め読みが出来る人と出来ない人がいるのも事実な訳で、この差は対論となる作品を知るか否かにあるわけです。 @ichi_3 言語であれ視覚情報であれ「読解力」というか。

2010-03-21 00:06:07
@CHIHYA_P

文学における経験的学習とはあらゆる文学表現に触れる事で獲得していく読解力ですが、読む作品が偏れば当然読解力も偏る弊害があります。同様の弊害は既存メディアの中、特に偏向報道において多く見られるわけで、これが生む偏見や誤解はリテラシーの疎外に影響を与えると言う訳です @ichi_3

2010-03-21 00:09:31
@CHIHYA_P

これが主張するメディアの中で、対論のない場所や、対論が妨げられる形で進められると作為的なベクトル(社会背景が見えない状態=メディアの不信)が発生してしまう訳です。こうなるとそのメディアの情報は断片化して行き、背景を求めて皆右往左往する。 @ichi_3

2010-03-21 00:20:39
いち @ichi_3

ノイズや恣意的な操作が混じった情報の中から「的確に」斜め読みをする能力は、多種多様な情報を取り入れることで「的確であるか否か」のフィルタリング機能を自身の中に造ることによって養われるということですね。…なんだかニワトリタマゴな気もしてきた… RT @CHIHYA_P

2010-03-21 00:20:55
CHIHYA @CHIHYA_P

でしょ^^ それが社会教育の一般化を長い間放置させてきた遠因であり、そして背景がメディアの主張と真逆のものである場合、フィクションとノンフィクションの関係が逆転し、メディアに依存する社会が崩れる訳です。@ichi_3 …なんだかニワトリタマゴな気もしてきた…

2010-03-21 00:27:35
@CHIHYA_P

そこには主張に裏がなくなるという危険もあり、混乱を避ける気が社会にあるなら、主張を正しく把握する(読み解く)スキルを育成する意義はあるかと思います。@ichi_3 …なんだかニワトリタマゴな気もしてきた…

2010-03-21 00:29:36
CHIHYA @CHIHYA_P

生まれた端から卵を食ってちゃ、卵は食べ続ける事ができんのです。鶏はいつか老いる訳で、卵を育て、健康な鶏を育てるってのも卵を食す楽しみの為には必要な事だぞと^^ @ichi_3

2010-03-21 00:31:03
いち @ichi_3

Tumblrでのテクストリブログから始まった話なのだけど、日本語話者のTumblrの場合、リブログした人のコメントがないことが多いので、その人が何を思ってリブログしたのかつかみかねることがある。全面同意なのか一部同意なのか疑義つき思考素材なのか単にことばの響きが気に入ったのか。

2010-03-21 00:36:14
いち @ichi_3

それを推測するにはその人の人となりを「読む」必要があるわけだが、そんなふうに「説明/読解」が必要なもの=テクストの引用のみの羅列を公開することが、見てるとなんかきもちわるいと思えてしまうのだ。

2010-03-21 00:36:58
いち @ichi_3

他人がどう思ったものだろうとそこに存在する単なる字面として新たに受け取ればいいのかもしれないが、文章の部分引用にはなぜかそれができない。「元の姿」があると知っているから。韻文ならまだしも、散文、それも意見を述べた文章の部分的な切り取りは元の文章や書き手に失礼とさえ思ったりする。

2010-03-21 00:39:15
いち @ichi_3

とりあえず私は「これってどういうことよマッタク」とひとりごちる人がいたら「あなたはどういうことだと思う?」と水を向けたい。理解するための努力を惜しまずにいたいしできれば皆がそうであればいいなと思う。ひとりごちもしなかったら、…どうしようもないんだろか。

2010-03-20 23:55:19