マーセナリイ・マージナル #3
ピロティティ、ピロティティ、ピロティティ……特徴的なアラーム音がムキョウの眠りを自然に覚ました。遮光カーテンは時間と共に徐々に遮光率を下げ、曇天のネオサイタマの光を窓から忍び入らせる。テック枕の側面の液晶には、心拍数・体温・α波の推移データが折れ線グラフ状に表示されている。
2016-10-17 22:28:37枕も、シーツも、フートンも、ユバナ・キャピトルの子会社、ユバナ・ベッドクローズ社の製品で、脳環境を整える為に最適とされるハイ・テック寝具だ。効果のほどはわからないが、スポンサー契約をしている関係で使用は義務付けられている。ムキョウは起き抜けのビタミン・スシを食べ、背伸びをした。
2016-10-17 22:33:20「ハイ、ムキョウ」ショウジ戸を優しく開き、オイランドロイドがアイサツした。盆には起き抜けのコーヒーだ。「ハイ、リヨコ」ムキョウはオイランドロイドの頬にキスをし、コーヒーを啜った。今日は月一度の模擬試験の日。己の力を誇示せねばならない日だ。ロゴ入りシャツに袖を通し、ネクタイをする。
2016-10-17 22:39:08リヨコは旧式のオイランドロイドだが、ムキョウは彼女を心から愛し、信頼していた。家族は彼女だけだ。ヒョットコムのランカーは唸るようなフェイムとマネーを得るが、高層ビルのハイプなパーティーには縁がない。日々の暗記トレーニングを欠かせばたちどころに成績は落ちる。ハニートラップも危険だ。
2016-10-17 22:44:14規則正しい生活で脳を最適に保ち、暗記トレーニングを行い、ストレッチをし、マネージャーから送られてくる受験マーケターとの折衝結果のIRC報告文書を確認する。ムキョウの生活はルーティーンで出来ていた。ハイスクールの頃とほとんど変わらない環境に、彼は10年近く己を置いている。
2016-10-17 22:48:11UNIXモニタを眺めていた彼は、デッキを操作し、己の預金口座を確認した。たいして使うものもないので、金額ばかりが増えていく。カネのかかる娯楽も無いし、人生設計もあまりない。人生設計か。ムキョウは微笑した。十年くらい前には国家があったが今は無い。何を設計しようというのだろう。
2016-10-17 22:52:05このルーティーンの暮らしでいつまで食っていけるか。ネオサイタマがまたわけのわからぬ状態に陥るか。どっちが先だろう。それでも受験産業は生き続けるだろうか。気になるニュースもある。プロ浪人生が上位を占有し過ぎている現状に、大学連盟が憂慮を明言するようになってきているのだ。
2016-10-17 22:54:24そうなればヒョットコムはどうなるだろうか。IRCフォーラムでは諸説入り乱れている。企業は受験ビジネスを見捨て、ランカーがまとめて路頭に迷うという者もいる。しかし大勢の見解としては、プロ・リーグとしてヒョットコム自体が継続し、受験のための受験が存続していくという意見が多い。
2016-10-17 22:58:12既に枠組み自体がカネを回すタービンとして機能している。株券が飛び交い、毎月の模擬試験や年一回のセンタ試験では巨額の賭け金も動く。「わからない」ムキョウは呟いた。何もわからない。彼がやっている事は高校生の頃から変わらない。奪われるものもない。ビタミン・スシのように無味乾燥な人生だ。
2016-10-17 23:01:56「どうしたんですか?」リヨコが前傾姿勢になって胸を突き出すようにした。魅力的だ。オイランドロイドはムキョウの額に触れた。「お熱は?ありませんね」「ありがとう、リヨコ」「頑張ってね」彼女に自我は無い。噂によれば、薄暗いストリートには、自我をもった胡乱なオイランドロイドが蠢くという。
2016-10-17 23:04:06リヨコはチャーミングに瞬きし、ムキョウを心配そうに見ている。「大丈夫だよ、リヨコ」「よかった!留守番しているからね」リヨコは笑顔になった。彼女は旧式だ。どう転んでも自我に目覚める事もない。これで充分に愛しい。自我に目覚めたオイランドロイドは、きっと疲れるだろう。「行ってきます」
2016-10-17 23:06:21耐汚染コートを着、部屋を出て、エレベータを使って20階から一気に降りる。入口のロビーで携帯端末に通信が入った。マネージャーのヤマナラ=サンだ。『ドーモ、ムキョウ=サン』「ドーモ」『単刀直入に言いますと、今回、妨害の危険があります』「妨害ですか?」ムキョウは立ち止まった。
2016-10-17 23:11:32ムキョウにはピンときた。マネージャーは受験への精神的悪影響を恐れてオブラートにくるんだ言い方をしている。ムキョウは試験会場への移動中に暗殺されたランカーを何人か知る。「危険ですか」『問題ありません。既にエージェントがムキョウ=サンを守護しています』「既に?今もですか」『そうです』
2016-10-17 23:13:30フーッ……。ムキョウは深く息を吐いた。「問題ありません」『流石です。我々を信頼してください』「勿論です」気配すら感じないが、どこかで彼の事を監視しているのだろう。ニンジャだ。実物は見た事が無いが、実在する事は間違いない。こうした闇の荒事を行う存在……ムキョウとは別世界の住人。
2016-10-17 23:16:46足早に徒歩3分のヤイドマ・ステーションに向かい、そのままモノレールに乗り込んだ。クルマを使った移動はかえって危険が多い。交通事故率の高さは社会問題化しているし、ヤクザ同士の争いに巻き込まれてハチの巣になる車両が後を絶たないのだ。
2016-10-17 23:19:20ネオサイタマの限られた高所区域を往復するモノレールはメガコーポの武装治安部隊によって24時間の警備下にあり、カチグミ通勤通学者を運んでいる。車体にグラフィティもない。「お勤め、ご苦労様です」逆関節治安ロボ、モーターガシラの重厚な巨体が投げる冷たい音声を受けながら、改札を通過する。
2016-10-17 23:22:25シートに腰かけ、イヤホンを装着した。試験当日の通勤時に暗記は行わない。ゼン・アンビエンス音楽だ。隣には女子高生が座っている。十歳くらい歳が離れているのに、社会的な公の立場は同じだ。それからカチグミのサラリマン達。この車両内の誰かがアサシンで、誰かが護衛者なのかもしれない。
2016-10-17 23:27:37ときおり黒い稲妻を光らせる曇天の下、黄灰色に霞んだネオサイタマの風景を、ムキョウは見下ろした。高層建築が並ぶ区域、庭園や朱塗りの瓦屋根の屋敷が配置されたカチグミ地域、屋台街や、海水が侵食した地域を埋め尽くす水上バラック群。火煙を噴き上げる黒々とした金属建築物。
2016-10-17 23:36:33早朝からすでにメガコーポ群の資本の血流は街を激しく動かし、サーチライトやネオン光を瞬かせて、ホロ・フクスケやホロ・トリイ、ホロ・フクロクジュなどの極彩色が黄灰色を割って花開き、「お座敷」「矢会社」「君な」「大きな安全」などの巨大ネオン看板のメッセージが明滅する。……ネオサイタマ。
2016-10-17 23:41:32『次は、シモタバイカ。シモタバイカ』車内放送が到着を告げる。ムキョウは端末を取り出した。試験会場はシモタバイカ駅から徒歩2分。ナビゲーションが起動し、ワイヤフレーム地図が目的地への最短距離を表示する。ただそれに従って動けばよい。彼が考えるべきは試験問題のアルゴリズム・パターンだ。
2016-10-17 23:43:42ガゴンプシュー……ドアが開き、乗客が吐き出された。女子高生も下りる。ムキョウもだ。同じ試験会場だろうか。やや郷愁めいた気分になった。彼女はまさかプロ浪人にはなるまい。大学へ進学し、研究職か、サラリマンか、スポーツか……これから生き方を決めていくのだろう。ホームの空気は寒かった。
2016-10-17 23:47:13人の列に従い階段を下りてゆく。自分はどこまでもマージナルな存在だ。影か、ユーレイだ。だからといってこの立場を抜け出そうとは思わない。ほかに生き方を知らず、十二分に歳をとり、希望もない……。ムキョウは改札を抜け、路地を左に曲がった。重金属酸性雨がパラつく。ネオン傘をさす。
2016-10-17 23:50:38