
遠藤周作の思想とカトリック教会の正しい教え
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遠藤周作は『私のイエス』(祥伝社、p.236)において、「異端とか異教徒という言葉は、今では無意味」と主張しています。これはカトリック教会の教えではありません。カトリック新教会法典(有斐閣)で第751条、第1364条を参照してください。
2017-02-05 23:29:09
教会法 第751条 受洗後、神的かつカトリックの信仰をもって信ずべきある真理を執拗に否定するか、またはその真理について執拗な疑いを抱くことを異端という。 第1364条 信仰の背棄者、異端者、離教者は伴事的破門制裁を受ける。 vatican.va/archive/ENG110…
2017-02-05 23:49:02
カトリック教会の不可謬の教えを否む者は「カトリック教徒」と自称しても異端者にすぎません。そして「教皇」であってもそのような異端者になることがありえます。「公の異端者である者は、自動的に教会の一員でなくなるのと全く同様に、自動的に教皇であることを止める。」(教会博士ベラルミーノ)
2017-01-03 19:14:17
教理省宣言「主イエス」22 信仰の真理を主張することは、教会が世界の諸宗教を真摯に高く評価する事実に何ら抵触しません。しかし『どの宗教でもよい』という信念に導く宗教的相対主義によって徴づけられた宗教無差別主義を根底的に排除します。 vatican.va/roman_curia/co…
2017-02-06 00:28:30
マーチン・スコセッシによる映画化で遠藤周作『沈黙』が世間の注目を集めています。この小説によって誤ったイエス観が撒き散らされているのは実に悲しむべきことです。『キリスト者の信条 踏み絵について』(世のひかり社)を読んで、正しいイエスの教えと教会の教えをどうか知って下さい。
2017-01-30 08:28:25
遠藤周作『沈黙』を批判した著作『キリスト者の信条 踏み絵について』(世のひかり社)の著者フェデリコ・バルバロ神父様は講談社版の聖書の翻訳者であり、もう一人の著者デルコル神父様も出版活動によって日本のカトリック信仰に多大な貢献をなさった偉大な神父様です。
2017-01-30 12:06:55
「私の考えでは、遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、特に非キリスト者にとっては、『ゆがめられたキリスト教』を紹介したに過ぎないのである。」(デルコル神父・前掲書)
2017-01-30 12:23:16
遠藤周作『沈黙』を批判したデルコル神父・バルバロ神父の著作『キリスト者の信条 踏み絵について』はこちらです。四谷のサンパウロで1990年代に入手したものです。今でも入手可能であればよいのですが。 pic.twitter.com/wJuYfTWxPB
2017-02-05 12:04:58

@glorycatholic 世の光社に直接問い合わせるののが良いかと。以前直接本を購入したことがあります。確か社長はデルコル神父様の秘書だったかと。
2017-02-07 04:34:53
ちなみに前掲書には、1978年12月24日12チャンネルのテレビで、井上洋治神父と遠藤周作のインタビューが放送され、その席で遠藤は「キリストは実際には無力で何の奇跡もしなかった」と主張したとあります。つまりこれは単に小説内の見解ではなく、公に述べられた遠藤の思想です。
2017-02-05 12:50:51
以下、両神父様の著作を参考にしつつ、遠藤周作が『沈黙』などの著作でどのように福音をゆがめているか、逐一検討を加えたいと思います。 twitter.com/glorycatholic/…
2017-01-30 12:37:30
「ある種の人々が、あなた方を惑わして、キリストの福音をゆがめようとしているだけのことです。たとえ私たち自身であろうと、天からの御使いであろうと、私たちが宣べ伝えた福音に反することを宣べ伝えるなら、その者に呪いがあるように。」(ガラテア人への手紙1:8)
2017-01-22 22:59:33
「形だけ」の背教なら許されるなどという教義は、カトリック教会にはありません。踏み絵を踏むなどの背教の態度表明は全て内在的に邪悪な行為です。野田時助『カトリックの信仰(倫理篇)』(中央出版社)p.552参照。 pic.twitter.com/ttVNi66ntr
2017-02-01 23:06:28

踏み絵を踏むことは「転び」すなわち棄教の態度表明です。隣人を躓かせる内在的に邪悪な行為であり、「形だけ」「信徒を救うため」ならそのような行為をしてもよいというのは誤りです。内在的に邪悪な行為は善意によって正当化されないからです。 twitter.com/glorycatholic/…
2017-01-31 09:46:04
遠藤周作は『沈黙』で、踏み絵を「踏むがいい」(新潮文庫版p.268)とキリストに語らせています。これは内在的に邪悪な行為の正当化であって、マタイによる福音書第十章などに示されているキリストの教えとは全く異なります。twitter.com/glorycatholic/…
2017-01-31 10:09:19
「人々の前で私の味方であると宣言する者を、私もまた天におられる父の御前で私の味方であると宣言する。しかし、人々の前で私を否む者を、私もまた天におられる父の御前で否むであろう。」 (マタイによる福音書10:32-33)
2017-01-30 08:57:43
@amendo_books 「形だけの」棄教ということが既に内在的に邪悪な行為なのです。そして善が生じるように悪を行うことはゆるされない(ローマ3:8参照)ので、そのような邪悪な行為が善意によって正当化されることはありません。twitter.com/glorycatholic/…
2017-02-02 12:55:49
キリスト者への迫害が起こるであろうこと、そしてそれに際して取るべき態度は、次のように福音書に明確に書かれています。神は、罪の償いや完徳のための試練として、そのようなことが起こることをお許しになります。twitter.com/glorycatholic/…
2017-01-31 10:48:03
「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。 むしろ、体も魂も地獄で滅ぼすことができる方を恐れよ。」 (マタイによる福音書10:28)
2017-01-30 09:51:20
「自分の十字架を取って私に従わない者は私にふさわしくない。」 「自分の命を保とうとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを得るであろう。」 (マタイによる福音書10:38-39)
2017-01-31 06:37:24
迫害を前にして、神はなぜ「沈黙」するのか、と問う人は、前掲のような福音の真理に無知であるか、あるいは知ったうえで神に不満を述べているに過ぎません。イエス・キリスト御自身が十字架の死を堪え忍ばれたのに、その弟子が迫害を受けることに何を驚きあやしむことがあるのでしょうか。
2017-01-31 10:58:19
「人々はあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂で鞭打つであろう。…あなたがたは私の名のゆえに全ての人に憎まれるであろう。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 (マタイによる福音書10:17,22)
2017-01-30 09:14:32
迫害を前にして、弱さから転んでしまったら、それを罪と認め、再びしないことを決心し、真摯に痛悔せねば赦されることはありません。「踏むがいい」で正当化している者には、そんな痛悔はできません。
2017-01-31 11:25:51
「キリストは『弱い者』のために来た。それは真実である。…しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったことはない。むしろ、「自分の命を救いたいなら、それを捨てよ」と教えたではないか。」(バルバロ神父『キリスト者の信条 踏み絵について』世のひかり社)
2017-01-31 11:44:05内在的に邪悪な行為が善意によって正当化されないこと、善が生じるように悪を行なうことはゆるされないことについては、次のモーメントの中で引用している教皇聖ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き』(邦訳・カトリック中央協議会)を参照してください。