『あしたのジョー』についての私論
ジョーが葉子お嬢様の求愛を拒んだのは、もしかしたらジョーにとって最大の愛情表現だったのかもしれない、と思い至った。
2018-04-13 03:38:29@pon1225 ジョーは泪橋を渡って幸せになれたのか?は難しい問いだ。「幸せ」というものが何を意味するか、まずその定義が難しい。 泪橋のこちら側にいた頃のジョーは、詐欺で巻き上げた金でドヤ街を再建する、とチビ連を前にキラキラした笑顔で語っていた。それが本心だったかはさておき、
2018-04-13 03:47:29@pon1225 その無邪気さは、泪橋を渡った向こう側のジョーが失ったものだ、というのは間違いない。段平は泪橋を逆に渡って栄光を目指そうとジョーを抱いたが、果たしてジョーにとって、橋を渡った先にあった栄光はジョーの幸福だったのかどうか。 「真っ白な灰」とは「失望ゆえの充実」ではなかったか。
2018-04-13 03:52:13@pon1225 矢吹丈という名前すら本名かどうか定かでないはぐれ者が、どこで生まれどこからドヤ街に現れたのかの描写はない。そして、ジョーが生きているのか死んでいるのか、それさえも曖昧なままに物語は幕を閉じる。 ジョーは泪橋を逆に渡って、何を得て何を失ったのか。
2018-04-13 03:56:05@pon1225 泪橋のこちら側でジョーが語る野望を聞くチビ連は半信半疑ながらも笑顔で喝采を送り、泪橋の向こう側で拳闘への情熱(執着)を聞かされた紀ちゃんはそれを憂いてジョーの元を去った。 ジョーが幸福になれる世界は、橋のどちら側だったのだろう。 ジョーを囲む人々はどうだったのだろう。
2018-04-13 04:00:40@pon1225 垂れて滴るほどの生命力をみなぎらせた人間ひとりが、社会の搾りかすとして産まれたというその事実の前に、何かを得たために全てを失った。『あしたのジョー』は、そんなやりきれなさに手向けられた鎮魂歌でありブルースだったんじゃないか。
2018-04-13 04:06:00@pon1225 ジョーは、拳闘と巡り会ったことで力石と出会い、紀ちゃんと出会い、カーロスと出会って、その拳闘によりそれら全てを失った。ただ一さいが過ぎ、ホセ・メンドーサの待つリングへ向かうジョーに向けられた葉子の愛の告白。 それを拒んだことはジョーにとって最大級の愛だったのではないか。
2018-04-13 04:11:44@pon1225 「お前も俺と同じになってくれ。愛するもの、大切なものを全て失ってくれ。そうでなければお前は俺と一緒になれない」 鑑別所の精神鑑定で「残忍で非情で利己的で乾ききった砂漠」と診断された矢吹丈が、葉子の愛を受け入れるためにはそうするしかなかったのではないか。
2018-04-13 04:16:04@pon1225 悲恋であり、悲劇かもしれない。でも、ジョーにとってはそれが最適解だった…と、そう考えることができれば、生き死にもわからぬ真っ白な灰になったジョーも、もしかしたら幸せであったのかもしれない。 そんな物語があってもいいんじゃないかと思う。
2018-04-13 04:18:55↑ここまで。
↓これに関連して。
「力石はジョーの待つリングへ、死に向かって降りていった」みたいな感想を見かけてさ… 違うんだよ。「生」の赴く先がたまたま死に向かってただけなんだよ。生きることと死ぬことは二項対立じゃないんだよ。だから真っ白な灰になったジョーは、生きてるか死んでるかわからなくていいんだよ。
2018-04-14 17:37:57極端なこと言えば「賭け拳闘の八百長で大金せしめるのもいいじゃねぇか」っていうような、いわゆる清濁混じり合った価値観から這い上がるのが『あしたのジョー』であってさ。 みたいなことはこないだ書いたか。 twitter.com/pon1225/status…
2018-04-14 17:44:25