#西郷どん 感想+補足まとめ 第三十一回「龍馬との約束」天が味方しなくても俺が味方する。一蔵の 正 妻 力 !!!

今週も大久保さんの魅力が炸裂してた… 大河レビューしています note https://goo.gl/6v3uEs ブログ http://hansu-aid.xyz/ モーメント https://goo.gl/RvuCo8
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Sakura Junichi 🍠 鹿児島 @kagopic

小松の描き方が非常にアッサリだったけど、薩長同盟って、小松の活躍抜きに語れない。 特に、今回の武器斡旋の話は、宰相の小松じゃないと無理だった。 いずれ大河の主役として描かれる際、「そうだったの~?」って、みんな驚くんじゃないか。 #西郷どん #町田啓太

2018-08-19 20:51:38

今週の町田先生

町田 明広 @machi82175302

「西郷どん」31回目を拝見!本日は歴史上の人物を素材にしたザ・ドラマという感じでした。物語としては、面白い展開でした!今回は、私の研究成果をもとに、同時期の薩長関係を軸にまとめてみました。#西郷どん

2018-08-19 20:45:19
町田 明広 @machi82175302

慶應元年(1865)5月16日に至り、征夷大将軍徳川家茂は長州再征のため、陸路江戸城を進発した。その一報が鹿児島にもたらされると、中央政局に見切りをつけ、小松・西郷・大久保の全員が帰藩していた薩摩藩においても対応を検討することになった。#西郷どん

2018-08-19 20:46:03
町田 明広 @machi82175302

当時の薩摩藩の方針は、長州再征後の幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、久光は藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指し始めており、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという抗幕志向を明確にしていた。#西郷どん

2018-08-19 20:46:19
町田 明広 @machi82175302

西郷は、「弥発足の様子自ら禍を迎え候と申すべく、幕威を張るどころの事にては御座ある間敷、是より天下の動乱と罷り成り、徳川氏の衰運此の時と存じ奉り候」(小松帯刀宛、閏5月5日)と、家茂の進発が天下動乱を招き、将軍家の没落に繋がると指摘する。#西郷どん

2018-08-19 20:46:37
町田 明広 @machi82175302

そして、西郷は大坂城での滞在は1年が限度であろうとの見通しを示し、今回の進発は抗幕体制構築にプラスになるとの見込を述べた。久光は大久保を上京させ、取り敢えず情勢探索と長州再征を阻止する周旋を行わせることにした。#西郷どん

2018-08-19 20:46:57
町田 明広 @machi82175302

一方で、小松・大久保・西郷が不在の京都では、将軍家の進発にあたって、岩下方平らの在京要路は大きな不安を抱いていた。そのため、5月24日、岩下は帰藩して小松・西郷らの上京を促すため離京したが、土佐藩浪士の中岡慎太郎・土方楠左衛門らを同伴した。#西郷どん

2018-08-19 20:48:43
町田 明広 @machi82175302

中岡慎太郎らは、上京の途次に西郷を下関に立寄らせ、桂小五郎との会談を実現し、薩長融和に向けた契機としたいと岩下方平らに迫り賛同を得た。しかし、岩下の帰藩目的は、あくまでも将軍進発に対応するための小松・西郷らの上京であり、どこまで真摯に中岡らの申出を受けたかは疑問である。#西郷どん

2018-08-19 20:49:19
町田 明広 @machi82175302

そもそも、岩下方平らは中岡慎太郎らの提案を許可できる立場になく、真摯に受け止めたとは言い難い。結果として、久光および小松帯刀は西郷派遣を認めたものの、薩摩藩は積極的な周旋を行う積りなど毛頭なかったのだ。#西郷どん

2018-08-19 20:50:10
町田 明広 @machi82175302

西郷派遣は先に上京した大久保からの書簡による懇請に応えたとされるが、その通説は根拠がなく、そもそも、この大久保書簡は見当たらない。更に閏5月18日、西郷が佐賀関に到着した際、大久保から至急上京を求める書簡に接したため、木戸と会談することをキャンセルしたとする通説も疑わしい。#西郷どん

2018-08-19 20:50:45
町田 明広 @machi82175302

実はその書簡も、見当たらない💦 #西郷どん

2018-08-19 20:51:21
町田 明広 @machi82175302

中岡慎太郎から西郷に、桂小五郎との会見の要請はあったものの、薩摩藩・西郷は時期尚早と捉え、その提案に同意しなかった。つまり、最初から西郷は木戸と会見する意向はなく、予定通り京都に向かったものであろう。#西郷どん

2018-08-19 20:51:35
町田 明広 @machi82175302

いわゆる、この「西郷すっぽかし事件」について、西郷・桂会見は中岡慎太郎と土方楠左衛門が勇み足的に計画して進めたものであり、確かに薩摩藩は支藩である岩国藩を通して長州藩への接近を図りつつあったものの、長州藩宗藩そのものに対しては、功山寺挙兵以後の情報にも乏しかった。#西郷どん

2018-08-19 20:53:16
町田 明広 @machi82175302

長州藩の事情が皆目分からない薩摩藩にとって、慶応元年のこの段階で、とても積極的にアプローチする段階ではなかった。ましてや、下関に薩摩藩の正式な使者として西郷を送り込むことは憚れたであろう。#西郷どん

2018-08-19 20:53:33
町田 明広 @machi82175302

一方、桂小五郎は薩摩藩との連携を模索し始めていただけに、大きな期待があったことは間違いない。しかし、薩摩藩との接触が宗藩として全くないこの段階で、西郷がいきなり藩内に乗り込んでくることに対して、桂が半信半疑であったことも想像に難くない。#西郷どん

2018-08-19 20:54:48
町田 明広 @machi82175302

ましてや、その情報源が五卿の従者に過ぎない土方楠左衛門であり、木戸が期待をしたことは事実であるが、どの程度この情報を信じていたかについては疑問である。#西郷どん

2018-08-19 20:55:06
町田 明広 @machi82175302

なお、西郷に梯子を外された桂小五郎が激怒したとされるが、これは土方楠左衛門の明治以降の後日談でしか確認できず、これもどこまでが事実であるかは断定できない。もちろん、失望はしたであろうが。。#西郷どん

2018-08-19 20:55:22
町田 明広 @machi82175302

こうした薩長間の仲を取り持った存在として、坂本龍馬が登場する。その背景として、薩摩藩の海軍は薩英戦争や長崎丸事件によって壊滅的なダメージを受けており、この時期、軍艦は手に入れたものの、乗組員の不足解消にはほど遠い状態が続いた。#西郷どん

2018-08-19 20:56:03
町田 明広 @machi82175302

小松帯刀と西郷は4月22日に退京し、藩船胡蝶丸で25日に大坂を発して5月1日に鹿児島に帰藩した時、坂本龍馬を同行している。龍馬がこの時、鹿児島のどこに滞在していたかは分からない。なお、龍馬は久光に謁見はしていない。しているのは、近藤長次郎。#西郷どん

2018-08-19 20:57:28
町田 明広 @machi82175302

ここで白羽の矢が立ったのが、勝海舟の門下生である土佐藩脱藩浪士グループ。このメンバーの中で、龍馬のみ別行動を取ることになる。龍馬は長州藩士とも交流があり、しかも、この間に行動を共にしたことから、小松・西郷が政治的周旋を龍馬に任せることが可能であると判断したものであろう。#西郷どん

2018-08-19 20:58:11
町田 明広 @machi82175302

西郷らは龍馬に対し、薩摩藩が抗幕体制を採るにあたって、長州藩をパートナーにする意思があることを申し含めた上で、長州藩への情勢探索に派遣した。薩摩藩に仲間と共に庇護されている龍馬が、薩摩藩の要請を了解することは至極当然である。#西郷どん

2018-08-19 20:59:09
町田 明広 @machi82175302

龍馬が薩長融和に尽力するのは、薩摩藩の意向に沿った周旋活動に他ならないのだ。ここに、薩摩藩士・龍馬としての履歴がスタートする。その龍馬の行動をサポートし、藩要路との連絡掛になったのが西郷であった。#西郷どん

2018-08-19 20:59:19
町田 明広 @machi82175302

慶応元年5月16日、龍馬は鹿児島を出発して23日に太宰府に至り、翌日には三条実美ら五卿に謁見した。これは、西郷が周到に用意した筋書きであり、長州藩潜入のための手引きを期待したものであった。なお、龍馬は鹿児島出発時には、桂小五郎が長州藩に戻っていたことを知らなかった。#西郷どん

2018-08-19 21:01:49
町田 明広 @machi82175302

西郷の作戦通り、龍馬は五卿従者の手引きにより閏5月1日に下関に至り、6日に桂小五郎と会見に及んだ。この時、先述した「西郷すっぽかし事件」があったものの、桂は龍馬から薩摩藩の抗幕姿勢を確認することが叶い、薩長融和に向けた第一歩となった。#西郷どん

2018-08-19 21:02:05
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