緑の座から「真水をくむ」ということ

豊穣の地を捨てあらたな場所へと旅立たねばならぬとき、その導となるのは透明な真水のような知   あるいは、寄り添い、ともに歩もうとする意志   そのとき縁(えん)は緑(りょく)となってより深い碧(あお)を示すのかもしれない 続きを読む
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m_um_u @m_um_u

わたしが特に思想家と自認する人たち、論壇の人たちに期待するのは「土地を捨てる」こととか「棄民」的なことを過剰に、ことさらに悲壮的・悲観的にあつかってそこに酔うだけではなく、きちんと他の土地や関係との再契約の可能性を示して欲しい、ということです

2011-05-03 17:53:39
m_um_u @m_um_u

@surumeno13 んだ。パトリオティズムとかナショナリズムとも絡むのだろうけど。もっと小さな志向、まだ色付けされてないコミットメントのあり方としてこういうのがあるように、なんとなく思うだよ

2011-05-03 17:55:04
イスーカワ @ishikawakz

つまり日本の高度成長の負の遺産であり、その高度成長そのものが環境や生活に対して、国策推進的なハイリスクなものであったという自覚の上で、今次の災害を受け止めて、あるいは受け止めれるかどうかも感じながら、次の持続可能な社会を考えなくちゃならん。

2011-05-03 17:55:13
イスーカワ @ishikawakz

つまり土地を捨てるとしても、実際その先に次があると思うんです。簡単なことではないけれど。そして動く人間を想定してそういう人々への就労とか生活とか、つながりの形を考える。

2011-05-03 17:57:17
イスーカワ @ishikawakz

やはり再チャレンジ可能な社会の方が絶対いい。今回の災害を見てもそう思う。もちろん中島義道のように「人生を半分降りる」のもありですが(あの人は全然降りてないけど)降りるためのお金がなくては降りられないのですし。降りてもその降りた人間としての生活がありますし。

2011-05-03 17:58:56
m_um_u @m_um_u

今の話なんかは漆原友紀「水域」なんかみるとわかるとです。ダムのために沈められた集落の話 QT ishikawakz: 六ヶ所村の映画でもそうで、あるいはダム建設もそうなんだけど、国の方が地方を再生させるプランがなくて、原発を押し付け続ける。地方は高齢化して参ってしまう。また都市を

2011-05-03 17:59:01
イスーカワ @ishikawakz

年を取ったり、病気になったり、いろんな事情で、自分のできる範囲が決まったうえで行動するということがあると思うのです。失われたものとともにあるあり方があるとは思うのです。未曾有の災害や事故でも、そうです。絶望はすごくあるとしても、失われたものを引っ張りながら生きるのも人間ではないか

2011-05-03 18:00:36
イスーカワ @ishikawakz

世界の戦後の社会というものは、失われたものを「忘れよう」いや「忘れられない」で綱引きをしてきて、そのたびに大変なことが起きて苦痛や記憶を人々に押し付けた面があるわけです。ですからそういうことではなくて、不幸を少なくするのとともに不幸や失われたものと生きるあり方を模索したいと。

2011-05-03 18:02:49
イスーカワ @ishikawakz

自分がそうですから、失ったものは帰ってきませんし自分も生きていけそうにない、むしろ生きることがキツイ、逃げたいと何度も思ってきたわけです。それはもう何度も。そう思いながらも、生きることはできるだろうといいたいのです。おかしないいかたすぎるかもしれないが。

2011-05-03 18:04:56
イスーカワ @ishikawakz

同じ不幸が皆を襲っているわけでなくて、不幸は非常に確率論的な、運不運に左右される面があって、自分はなんでこんな世界に、なんでこんな目にあいながら生きているのかという部分が非常に大きくあるわけです。自分は陰惨なイジメにあったとき思いました。

2011-05-03 18:07:11
イスーカワ @ishikawakz

イジメも人災だと思っているんですけどね。

2011-05-03 18:07:37
イスーカワ @ishikawakz

イジメだけじゃなくて自分はなんでこんな元気がなくて…と思ったことも何度もあって。今でもよくわからないわけですが、その体験の強度、ではなくて、自分の身の上に降り注ぐ恐怖をどう生きるかということが。(いや無論災害の被災者と違いますけども)

2011-05-03 18:09:24
イスーカワ @ishikawakz

修羅場というのはわかりやすい場所に典型例のようにあるわけではなくて、自分なんかは甘いとは思いますが、しかしまあわかりやすい形ではなく非常に個別的なものです。その個別的なものから普遍的な真水をくみ上げる必要があるんです。

2011-05-03 18:11:08
イスーカワ @ishikawakz

もし個別的なものにただ止まるなら、しかしそれは実は人間にはできません、だから一般的なものにすがって生活を立てる。けれども、ものを考えるというものは「この世界で生きるならこの世界はなんだ」という限定的でありながら逃れられない人間の普遍的な問いの層にちかづくことです。

2011-05-03 18:13:09
イスーカワ @ishikawakz

生きるというのはものを考えなくては生きられないのです。実は。言葉を操るものほどこのことを忘れていきます。そういう事柄を誰かは存在忘却と呼んだのでしょうか。

2011-05-03 18:14:06
イスーカワ @ishikawakz

ものを考えるというのは、結局世界を考えることであり、私に降り注ぐ、貫通するものを考えることであり、それを生きることであり、結局存在の全容の恐ろしさに、あるいは喜びに当り前さに、震撼しつづけることであり…

2011-05-03 18:16:16
イスーカワ @ishikawakz

ものを考えることで行動が可能になりますし行動しながら存在を変形させていきます。

2011-05-03 18:17:00