大渡鴉氏による「でやんな祭」の起源考察
@oowatarikarasu あと脱出の閏2月24日と祭りの開催日、旧暦二月初巳もおおよそ一致しますね。 黒木御所説によるならこれで解決する気がします。
2019-07-13 03:00:15@enco2001 凄いな。ことによっては後醍醐天皇の流刑地までわかってまうぞ? 祭が後になって作られたのなら違う可能性もあるが……
2019-07-13 03:02:17@oowatarikarasu 祭りの起源についてはもとが個人の祭だったとなるとまず不明なのでこの論を崩すとしたら黒木御所説が完全否定されたときではないでしょうか(そこが根本なので国分寺説はたいへん都合が悪い)
2019-07-13 03:04:16@ryuhorie530 初めてで失礼します。 謎はすべて解けた(金田一風に) そうではないかなと思っていたのですが、この奇祭、後醍醐天皇の隠岐脱出に関わって出来たものと思われます。(祭のある場所、伝わる家の位置が流刑地候補の一つと完全に一致します)恐らく→(続く
2019-07-13 21:37:15@ryuhorie530 続き)後醍醐天皇が島を脱出する→島民はそれを知っている→知っているが相手は雲上人なので邪魔出来ない→かといって見過ごしたら朝廷から後で睨まれる→そこで村人全員参加の物忌み祭を思いつく→「物忌み祭をしていたので脱出に気づきませんでした」という言い訳が立つ→続く)
2019-07-13 21:40:37@ryuhorie530 続き)後はその祭を数年続ければ朝廷に対して言い訳が立ちます。そうして年月が経ち、当事者達がいなくなり由来を知る者もいなくなり、村人全員参加の物忌み祭という形式と結果だけが残って現在に至ったのでは? という……。……推測ではありますが
2019-07-13 21:43:35@oowatarikarasu 良いですね~!それも確かにいくつかある有力な説のひとつらしいです。ですがロマン度では群を抜いてますよね。色んな方の考察が聞けるのもこういった話題の素敵なところですね。 説得力のある説、ありがとうございます…!
2019-07-14 14:28:10