給炭艦『野島』を幻視する朝荒沼の住民

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なお、まとめ主自身は野島関連の話題について擁護・批判いずれの立場を採る意図もありません(し、そもそも双方の当否を論じる資格もありません)が、良い機会だったので『戦史叢書』の確認がてら、該当箇所を以下に引用しました(冗長の誹りは甘んじて受けます)。

  • 戦史叢書第096巻『南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後]60-61頁 - 防衛省防衛研究所HP

    第二章 八十一号作戦と「い」号作戦
     一 八十一号作戦(ラエ輸送船団の壊滅)
    ‥‥
    被害の状況 我が輸送船団の被害は次のとおりであった。
    ‥‥
    「野島」 ○八○○ころ敵機の攻撃により罐室、機械室に被弾、火災、航行不能となり、更に「荒潮」と衝突、一二三○総員退去、午後第二次爆撃を受け沈没。
    ‥‥
    「荒潮」 ○八一○ころ艦橋、二番砲にそれぞれ被弾、舵故障、「野島」と衝突し艦首を大破。乗員の大部を「朝潮」に移した。残留員をもって微速漂流中に第二次攻撃を受け傾斜三○度に達した。残留員一七○名は付近漂流者とともに救援に来た「雪風」に収容された(細部後述)。同艦はその後沈没確実と認められたが、米側資料によればその後も漂流を続け、翌四日天明時B-17の投下した五○○封度爆弾が第一煙突に命中、船体を引き裂いた。
    「朝潮」 「荒潮、野島」及び輸送船乗員を救助し撤退中、三日一三一五以降二回にわたる敵機の攻撃を受けて沈没(細部後述)
    ‥‥
    遭難者の救助
    ‥‥
     敵機が全く現場を離脱したのは○八三○ころであった。「朝雲、雪風」は全く被害がなく、「浦波、敷波、朝潮」は損害軽微であった。全速で回避に努めていたこれら五隻の駆逐艦は、○九○○過ぎから僚艦及び輸送船の遭難者の救助作業を開始した。護衛部隊指揮官(三水戦司令部)は○九三○「敷波」に移乗、これら五隻の救助作業の指揮にあたっていたが、一○三五敵機二四機発進との報により(発信者不詳)、「救助作業中止、ロング島北方海面に集結」を命じた(ロング島北方海面ならば敵小型機はこないとの判断によるものだった)。このとき、「朝潮」乗艦中の第八駆逐隊司令佐藤康夫大佐は「我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後撤退ス」と信号を送った。このため「敷波、浦波、朝雲、雪風」の四隻は「朝潮」を残して急速北上し、一五○○ころロング島北方海域に到着した。
    「朝潮」は、僚艦「荒潮」、陸軍輸送船及び「野島」の遭難者を収容のうえ北上撤退中、一三一五、二回にわたって敵機約四○機の攻撃を受け数分にして沈没した。朝潮駆逐艦長吉井五郎中佐、荒潮駆逐艦長久保英雄中佐はいずれも戦死、佐藤大佐は「朝潮」沈没の際同艦前甲板に残り、従容として艦と運命を共にした。同大佐は、常に欣然として南東方面輸送作戦に多数回従事し、功績抜群のため感状を授与され、戦死に当たっては特に二階級進級せしめられた。

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