【なりきり武将】信繁さんの真田語り 09/02

なりきり武将の真田信繁さんが語る、祖父・幸隆公語りまとめ。 ホント、ただまとめただけでスミマセン…! 後からじっくり読もうと思って…´`
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真田左衛門佐信繁 @s_n1567

さて…。賑やかな中、昼間にしようと思っていましたが、(力尽きた為できなかった)事を少しずつ分けて話して参ります。今夜は真田家の”るーつ”と、祖父・幸隆公について。諸説様々ありますので、そんな事もあったのか、程度にお聞き流しくださいますよう  #真田語り 

2011-09-02 20:17:08
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

まずは我ら真田が発祥の地、信濃の国について少し。信濃の国は山に囲まれており、古代は『科野(しなの)』とも呼ばれた。「科」とは、山上から山麓にかけての段々状の土地。山間の谷を「沢」。長野には沢とつく苗字の家が多いそうです #真田語り

2011-09-02 20:19:51
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

山並みから裾野に広がる盆地は「平」。善光寺平・佐久平・松本平の地名が残り、その間は、街道(佐久甲州街道や越後からの北国街道など)で結ばれています。真田一族発祥の地は、佐久平。子孫は善光寺平の松代藩士として、幕末まで活躍。近代では華族に列し、その名を残しています。 #真田語り

2011-09-02 20:35:25
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

信濃と言う国は、数多くの大国と境を接しており、越後・上野・武蔵・甲斐・駿河・遠江・三河・美濃・飛騨・越中など。更に、信濃の国内は、戦国時代11の群から成っていました。その各郡を統治する中小の国人が数多くひしめき、凌ぎを削っていた為、巨大な戦国大名はいなかったのです。#真田語り

2011-09-02 20:37:14
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

その中で勢力を誇っていたのが、北信地方(善光寺平)の村上氏、南信地方(諏訪平)の諏訪氏、中信地方(松本平)の小笠原氏、東信地方(小県・佐久郡)含む佐久平を基盤とする滋野一族。この、滋野一族の中に、真田氏は含まれます。…やっと真田の名前が出てきました #真田語り

2011-09-02 20:48:00
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

ちなみに、信濃の国はその自然多く囲まれた地のせいか、馬の生育に適した地でもありました。馬は貴重なものであった為、奈良時代には朝廷が馬の育成を図り、国立の牧場【御牧】を設置。国内最大級の生産地でもあったのです。佐久郡産出の「望月の馬」は名馬として珍重されました。#真田語り

2011-09-02 20:51:52
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

滋野氏は信濃の名門。中でも、海野・禰津・望月家が滋野三家と言われ、小県、佐久郡で勢力を誇っていました。…何処かで聞いた事のある名前が出てきましたね^^ 史上に初めてその武名を残すのが、保元の乱。源義朝公に騎兵として付き従っていた、と「保元物語」に記されています。 #真田語り

2011-09-02 20:54:37
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

「平家物語」の作者がこの海野氏の子孫ではないか…という話しも在るのだとか。 #真田語り

2011-09-02 20:59:53
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

海野幸長という人物。木曽義仲公の祐筆だった方。御子の幸氏殿は木曽殿の御嫡子・清水冠者義高殿に仕えられました。大姫との悲恋で有名な「清水物語」で、義高殿脱出の折に身代わりとなったのが、この幸氏殿です。【余談①】 #真田語り

2011-09-02 21:00:27
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

幸氏殿と言えば…。この方はその後、「曽我物語」にも登場なさいますね。 #真田語り

2011-09-02 21:01:16
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

日本三大仇討と呼ばれる物語の一つ。仇討ちに来た曽我兄弟が頼朝公主催の富士裾野の巻狩りへと突進し、御家人衆と斬り結ぶ「十番斬り」の段にその名を見出す事ができるようです。以降、海野家の嫡流は代々、小太郎を名乗るようになったのだとか。意外な所で歴史は絡みあっているようで…。#真田語り

2011-09-02 21:02:16
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

真田家と言えば、「真田三代記」が有名ですが、まずは真田幸隆殿。1513年信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕え、後に武田二十四将のお一人になられます。 #真田語り

2011-09-02 21:09:18
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

真田家と言えば、「真田三代記」が有名ですが、まずは真田幸隆殿。1513年信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕え、後に武田二十四将のお一人になられます。 #真田語り

2011-09-02 21:09:18
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

私の祖父に当たる方で、真田家の基盤を作られた方。色々な経歴を経て、「信濃先方衆」としてお仕えされました。 #真田語り

2011-09-02 21:09:31
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

先方衆とは、徳川殿の御世で言う所の、譜代に対する外様という形になります。主な役割は三つ。①地理の案内や偵察 ②人縁・地縁を用いた各地の情報収集 ③血縁による国人の懐柔・籠絡・切り崩しなどの謀略活動です。 #真田語り

2011-09-02 21:13:16
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

祖父・幸隆公はその才に長け、様々なご苦労もしつつ、徐々にその頭角を現し、武田家に御奉公なさいました。 #真田語り

2011-09-02 21:14:29
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

戦国時代では、派手な行軍武力で事を収めるよりも、様々な謀略を用いていました。如何に最小の被害で最大の益を得るか…。略(はかりごと)には戦略・策略・知略・計略・謀略様々在りますが…。略は別名「表裏」とも言います。柳生宗矩殿の『兵法家伝書』にもこのように書かれています。 #真田語り

2011-09-02 21:16:15
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

『表裏こそが兵法の根本。表裏とは略(はかりごと)である。偽りでもって真を得る事』と。軍事動員には限界もあります。当時は人口も今程はなく、各大名家はできる限り兵力の温存を図り、消耗を少なく、そして『損傷のない戦い』に益を求めたものですから、栓なき事かと…。 #真田語り

2011-09-02 21:16:48
真田幸村🐎女阿安姫 @aya_sanada1615

@s_n1567 ちちうえ おつかれ さまです(●´∀`●)つ旦 つめたい おちゃ どうぞ

2011-09-02 21:22:34
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

@aya_sanada1615 ありがとう阿安。……うん、美味い^^ (なでなで) 

2011-09-02 21:26:23
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

では中座していましたが、また続きを語って参ります。阿安、お茶をありがとう…

2011-09-02 22:11:31
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

色々な変遷を経て、幸隆殿は武田家方の武将として、川中島の戦いにも参戦されています。その後、幸隆殿は所領を安堵され、信玄公の家臣・小山田昌行殿に付属します。その後、武田家が滅んだ後、小山田殿は真田家に入り、家老を務めてくださいましたが、その辺は別に機会にまた… #真田語り

2011-09-02 22:20:42
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

同時期、信玄公は幸隆殿に三男・源五郎(後の昌幸公・私の父)を府中に在住させるよう求めます。所謂人質と呼ばれるものです。  #真田語り

2011-09-02 22:22:28
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

当時、人質は珍しいことではありませんでした。主従としての関係を強化し、これからもよろしく、というような意味や、人質を差し出す側の者の事を、主人が認めている、というような意味合いもあったた為、現代におけるそれとは大きく意味合いが違っていますのでご心配なく…。 #真田語り

2011-09-02 22:26:15