5/8 京の武田家所縁寺院めぐりその6(離宮八幡宮・石清水八幡宮)

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日光81 @nikko81_fsi

GW最終日、離宮八幡宮。大山崎油座を擁して荏胡麻油で潤ったとの由。「守護不入之所」を足利義満から認められ、室町中期に自治組織「大山崎惣中」が成立。元亀の信玄西上作戦にあたり、祈祷を行い禁制を要求するも、まだその時機ではなくその段になれば対応するとやんわり断られている(戦武2030) pic.twitter.com/OoC7PdWTAJ

2022-05-10 18:38:44
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日光81 @nikko81_fsi

といいつつ、戦武2031には武田家?禁制写があり、元亀4年3月付。当面出さないと返事している以上、個人的には写というより、禁制案でこの通りに描いて貰うために大山崎惣中が用意をしていたのかなという印象。武田が盛んに上洛する喧伝していたのが証左として「図説武田信玄」でも紹介されている。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-05-10 18:39:59
日光81 @nikko81_fsi

離宮八幡宮の大量の古文書から、その歴史を紐解くとまた他の寺社とは異なり興味深い。鎌倉期には朝廷と、室町期には幕府と深く通じて権益を確保。自治組織として軍事力を保持しつつ、「神人」としての身分を活用し、祈禱の巻数を贈って各地と通じるなかで、情報収集に長けた集団になっていく。

2022-05-10 18:48:30
日光81 @nikko81_fsi

戦国期の禁制は写も含めて67点も現存し、一カ所の宛所としては有数の規模らしい。先の武田家ヵとされる禁制写もそのひとつ。戦局に敏いだけでなく、積極的に祈禱巻数等々を贈る積極さが浮かび上がってくるようでおもしろい。

2022-05-10 18:51:13
日光81 @nikko81_fsi

改めて本禁制写と一つの事例として、三好三人衆の禁制を比較すると、項目が非常に似ていて、基本的な項目は固定的だったのだろうか。他、三好義賢や六角承禎の禁制の例を確認。

2022-05-10 18:56:14
日光81 @nikko81_fsi

一方、当面は発行しないとした大山崎惣中への返書は土屋昌続と僥倖軒宗慶で、元亀4年3月26日付。恐らくその頃信濃三河国境付近で信玄は死の淵を彷徨っていた…時期。あまり知られないがこれを機に武田氏家臣人名辞典を紐解くとこれもまた興味を惹くのだ。

2022-05-10 19:02:00
日光81 @nikko81_fsi

僥倖軒宗慶と板坂法印がどうも同一人物らしい。まだ板坂法印のほうがわかる…そう、信玄の病を「隔」と診断した侍医として、甲陽軍鑑に登場する人物。追っていくと、京都関連では、覚恕の斡旋で権僧正叙位の際に礼状を認めていたり(戦武1970)しているし、本願寺との取次役を任されていたりも。

2022-05-10 19:10:37
日光81 @nikko81_fsi

権僧正叙位の際に、礼状では来春早々に必ず礼をするともあって、もし信玄存命だったら…の京での活動を想像するよすがにできるかもしれないな。板坂法印そういう人物だったんだ。というのが大山崎惣中とのやりとりがキッカケで気づけて楽しい。

2022-05-10 19:15:24
日光81 @nikko81_fsi

往時は広大な境内地を誇り、また中世から近世に至るまで、一定の自治領として生き延びてきたものの、明治以降はすっかり振るわず、今や小さなお社という感じ。しかしあの山崎蒸溜所のすぐ脇にこんなに楽しい武田史跡があるとはね。山崎見学するときは是非今後寄るようにしよう。 twitter.com/nikko81_fsi/st… pic.twitter.com/P3Uxq20QZh

2022-05-10 19:21:17
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日光81 @nikko81_fsi

意図的に小出しにするつもりはないのだけど、ラストを飾る石清水八幡宮は明日。実はあんまり押さえてなかったんだけど、当地で丁寧に軸装された信玄公文書をみてすげーじゃんと思って慌てて調べた感じなのだ。

2022-05-10 19:22:53
日光81 @nikko81_fsi

さて、GWラストを飾るのは男山石清水八幡宮。石清水八幡宮というとだいたいこっちですね。離宮八幡宮と「石清水」名乗りをめぐり争いとなり、江戸幕府の裁決でこちらが「石清水」となりましたとさ。こちらも信玄公と所縁があるのです…あっ、山崎の樽もありますね🥃 pic.twitter.com/PKbpTaw7kJ

2022-05-11 19:23:24
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日光81 @nikko81_fsi

戦武4244所収の石清水八幡宮所蔵文書。「於神前、被凝精誠、牛王香水送給候、則頂戴、殊ゆうけ杉原等賞翫仕候、仍刀一(長谷部國信)奉社納候、彌武運長久御祈可為本望候、恐恐謹言、六月八日 信玄(花押) 善法寺 進之候」文面も丁寧で「善法寺」の宛所が日付よりも高く溢れる丁重感。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-05-11 19:29:30
日光81 @nikko81_fsi

内容としては祈禱の返礼ですが、太刀を奉納している点も含め他の在京寺社への返礼と扱いが異なりますね。戦武4222としては年不詳なのですが、ほぼ文面が同じ(太刀の名前が若干異なる)戦武4233では元亀3(1573)年6月に比定されています。

2022-05-11 19:31:56
日光81 @nikko81_fsi

この頃…実は信長との対決に踏み切ろうとしつつ、表面的には友好関係を維持していた微妙な時期。同年閏1月には松姫と織田信忠の進め、8月には将軍義昭の指示で信長と本願寺の和解に乗り出す…が、ちゃくちゃくと三河への布石も打っている…そして、この石清水八幡宮の誰に宛てたか、がまた興味を惹く。

2022-05-11 19:36:55
日光81 @nikko81_fsi

「善法寺」とは石清水八幡宮を管轄する長官たる社務家のひとつ、善法寺家。現在の宮司家の田中家や新善法寺家、東竹家など複数の家が交代で職務に当たっていたのだが、もう一通善法寺家宛の文書があった。明智光秀の文書である。

2022-05-11 19:39:42
日光81 @nikko81_fsi

善法寺家は室町時代には将軍家の祈祷師を勤めた家柄で、足利義満の母は善法寺家から出ており、特に足利将軍家との所縁があるようで、逆に信玄死後直後の幕府滅亡により、地位が低下。天正年間以降信長、秀吉と残る文書は今の宮司家である田中家宛。幕臣出身の光秀だからこその間柄に思えた。

2022-05-11 19:43:18
日光81 @nikko81_fsi

そして、明智光秀が対武田家の取次役とみられている関係性とまだ(表面的には)織田との友好関係が樹立されている段階。また、愛宕権現についても信玄文書の宛所は光秀と入魂だった威徳院だった。こちらと共に武田家取次役の明智光秀との関係を想像できた。

2022-05-11 19:46:02
日光81 @nikko81_fsi

石清水八幡宮の社務家の四家、独自に被官を持ち、大山崎と同じく「淀六郷惣中」を形成して自立した組織体だが、大山崎のような独自性よりも、石清水八幡宮の所縁も含めて朝廷・幕府との関係も強いことから、足利義昭の室町幕府体制を支える藩屏として織田と武田の繋ぎ役…だったような印象を持った。

2022-05-11 19:53:41
日光81 @nikko81_fsi

光秀が対武田の取次役と見なせるのは、松姫と織田信忠婚姻に関わる証跡からだが、愛宕山同様明智光秀と武田家の関わりを想像させる点を得られたのは大きい。元亀年間に武田と織田の対決がもし仮に現実になっていたら、光秀の立場は苦しく、後年の対長曾我部関係に似たような状況だったかもしれない。

2022-05-11 19:58:16
日光81 @nikko81_fsi

尚、明智光秀の善法寺家宛の文書はこちらに解説がある。yrekitan.exblog.jp/31990144/

2022-05-11 19:59:16