- yuriikaramo
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「銀河鉄道の夜」で魅力であり、特異であるのはいわゆる「語り」の文です。 なぜ「語り」の文を私たちは普通の小説を読むようには出来ないのでしょうか? #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:55:16角川p177「けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりもっとすきとおっていたのです」 あたかも水素がすきとおって「見える」かのような表現です #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:55:33角川p206「まるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。」 これは金剛石が日光を吸っているように「見える」表現です。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:55:48こうした例はあちこちに見られます。ここで大切なのは普通、絶対に見えないであるものが「見える」ように表現されていることです。登場人物は「見えない」ものが「見える」のです。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:56:14一方、では私たちがこの小説で「見えない」ものは何か?を考えてみましょう。 ここで、双葉社出版の「日本文学ふいんき語り」から引用します。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:56:37p68「イメージが鮮烈なシーンはじゃんじゃん出てくるんだけど、それを具体的に説明する描写がない。」「きっと読んでるうちに謎を推理したくなるんだよね、具体的に書かれてないから。」 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:57:01ここで言う「具体的に書かれてない」ものは何か?それはイメージに整合性を与えるべき「内容」です。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:57:15みなのつぶやきの中で多かった「内容」に関する謎。例えば「鳥捕りは何なのか?」「カンパネルラは死んだのか?」「ジョパンニの父は結局何があったのか?」これらは通常の小説ならば、「見える」はずのものです。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:57:34しかし、この小説では見えてこない。つまり、まとめれば「銀河鉄道の夜」は「見えるもの」が「見えないもの」になり「見えないもの」が「見えるもの」に逆転して成立しているのです。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 16:57:59「語り」の文がクリアに「見える」ために私たちはそのイメージに引き込まれますが、「内容」に「見えない」部分を散りばめられることで、読み手はそれを推理する欲望に突き動かされます。なぜなら全てをクリアに「見えるもの」にして読みたいからです。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:00:46そうした作用は推理小説の機能と同じです。だから、皆が皆、「銀河鉄道の夜」の細部にひっかかりを感じ、読解の欲望を持つのです。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:01:01角川文庫の解説をしている河合隼雄も結局その点では自分なりの宮沢賢治象や仏教感や心理学といった「道具」を使って推理しようとしていることが分かります。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:01:17なぜ、作品はこうしたややこしい方法を取ったのか?そこにはもう一つの「見えないもの」が絡んでいるのです。ふたたび日本文学ふいんき語りから引用。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:01:32p68「“みんなのほんとうのさいわいをさがしに行く”(中略)宮沢賢治はえんえんと言う、繰り返さずにはいられない。(中略)まだ伝わんないよーってがんばってる感じ。」 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:01:47そう「ほんとうのしあわせ」を宮沢賢治はえんえんと繰り返す。それは何故か?それは「ほんとうのしあわせ」が「見えないもの」だからです。見えるようにしようとしても、実は見えないしあわせをこの小説は見せようとしているのです。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:02:09では、「内容」の細部を推理しようとする時、「ほんとうのしあわせ」も推理しなくてはならない。「見えない」ものを「見える」ようにすることに皆が突き動かされてるのだから。 #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:02:45じゃあ、これは宮沢賢治からの読者への挑戦状です。ヒントは「見えないもの」です。じゃあ、犯人である「ほんとうのしあわせ」が何なのか推理しよう!以上! #tw_dokusyokai
2009-12-20 17:03:06