Twitterでの「言葉の供養」について自分なりに考えてみた
ついったーを10ヶ月放置した私としては、津田さんにはついったーは言葉の供養に使えるツールということをもっと言ってほしい。流れるTL、飛び交う@、αの壁とクラスタなしの自分。当時の壁は高かった。Lifeで聞いた言葉の供養に救われて、再び楽しめてる今がある。
2009-12-13 03:03:15言葉の供養という概念に対する対するニーズってないのかな。私はついったーを楽しむ上での指針となるのではないかと思っているのだけれど、みんなはもっと素直な気持ちで使えているのかな。http://bit.ly/8yuY6V
2009-12-24 02:53:58今まで言葉の供養についていじくりまわして、「行動—感情—(思いを内包する)言葉」という仮の尺度を考えてたけど、これはどうやら違うようだ。「"言葉"の供養」ではなく「言葉の供養をするメディア」までまとめて考える必要があった。
2010-01-04 22:45:30私の好きなフォロワーさんは、140字めいっぱい使ってその中に真理を込めようとする人もいるし、一行ポストの繰り返しの中からその隙間をこちらが推測させる人もいる。なぜこの両極端な人たちから、共通に「言葉の供養」感を得るのか。答えは簡単で、「言葉」を使っているからだった。
2010-01-04 22:51:14言葉の供養をすることとは、行動や感情、思考を含むあらゆるものを「言葉」にして、それをポストすることである。それはみなさんがついったーを使ってる行為そのもの。ポストすることがなぜ供養になるのか?それは頭の中身を外部に出すという意味で、ライフハックでのユビキタスキャプチャーと似てる。
2010-01-04 23:02:50ユビキタスキャプチャーとは、気づきなどを全てを書いて頭をからっぽにする方法。言葉の供養も同様の効果がある。これらの違いは、その行為の先、つまりメディアにある。ユビキタスキャプチャーは将来の自分が振り返ることを念頭に手元に残すが、言葉の供養はTLに流して自分はすっかり忘れてしまう。
2010-01-04 23:10:19情報の再利用性を念頭にしたユビキタスキャプチャーには、(私のレベルでは)再利用という強迫感があり、若干の残り感がある。強迫感のない流れる仕組みがあるため、ついったーでの言葉の供養にはそのようなものはない。好きなことを書けるし、読み返さないと思うから、書きながら考えることができる。
2010-01-04 23:17:25言葉の供養をする時は、書きながら考えるため、推敲というフィルターが粗く、思考のだだ漏れが起こる。起こるがゆえに、個人のポストにはその人らしさが混じる。これを人が読み、反応があると、繋がりが生まれ楽しめる。すると書いた人は意図的な漏らしを起こしだす。これがメディアに当たる部分。
2010-01-04 23:30:31つまり「言葉の供養をするメディア」とは、「思考のだだ漏れを共有して楽しむ仕組み」だと今は受け取っている。それを楽しめる人のところには人が集まるし、嫌だと言う人には、残念ながら集まらない。これは初心者をけなしている訳ではない。何を書いていいかわからない人への指針であってほしい。
2010-01-04 23:39:15かつての私はオンライン上にID固定で思いを書くことが怖かった。そういう人のための指針に「言葉の供養」はなってほしい。供養すれば頭がすっきりして、実生活でのストレスは軽減する。人との繋がりは二の次だと思ってほしい。丁寧に供養してれば、いずれ誰かが見つけてくれる。
2010-01-04 23:48:54今日のまとめ。ついったーの楽しみは「人と繋がったからすっきりした」ではなくて、「自分勝手にすっきりしてたら、結果人がついてきた」が有名人でない限り、大多数の人のステップ。楽しんでいる人を見て僻むのではなく、まず自分から「言葉の供養」をしてすっきりしようよ。
2010-01-04 23:58:58昨日触れたユビキタスキャプチャーについての参照記事→ http://lifehacking.jp/2007/04/ubiquitous-capture-habit/
2010-01-05 16:54:20