将棋文化検定 暗記用覚え書き 明治〜昭和編

近代に入ると一気に情報量が増えて何がフォローすべき情報かどうか分からなくなってきました。名人140字呟きは情報量がありすぎて収まらないので◯◯の決戦系をフォロー。これも覚えろというのがあったらTwitter上でご指摘ください。今回はじゅうきいせつさん有り難うございました。
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まるぺけ @maruX

[将検]十一世名人八代目伊藤宗印。家元制最後の名人。明治12年襲位。伊藤家の養子。弟子に小菅剣之助、関根金次郎。天野宗歩亡き後次期名人候補と期待を集めた。明治維新で家元制度が有名無実化したため、百番出版校合会を呼びかけ大矢東吉、小野五平らと将棋界の再興をはかるも後に分裂した。

2012-10-16 23:22:13
まるぺけ @maruX

[将検]十二世名人小野五平。天野宗歩の指導を受けたこともある。明治33年に襲位して後、91歳で死去するまで名人であり続けた。日本チェス会の草分け的存在。

2012-10-16 23:28:56
まるぺけ @maruX

小野五平先生は検定に出るとかじゃなくて、関西将棋会館のこの特集「十二世名人小野五平 その知られざる実力」http://t.co/yRzOYMal が面白いのだ。

2012-10-16 23:30:35
まるぺけ @maruX

[将検]十三世名人関根金次郎。十代から将棋遊歴の旅に出る。師は十一世名人伊藤宗印。ライバル坂田三吉とは生涯32局戦い、15勝16敗1分。1921年53歳で名人に就く。1924年東京将棋連盟結成。自らは名誉会長に、会長は弟子の土居にさせた。1937年に名人引退、実力制名人戦に移行。

2012-10-16 23:45:23
まるぺけ @maruX

関根門からは土居名誉名人、金易二郎名誉九段、花田長太郎九段、木村義雄十四世名人、小泉雅信八段、渡辺東一名誉九段、五十嵐豊一九段などが輩出している。

2012-10-16 23:47:11
まるぺけ @maruX

[将検]十四世名人木村義雄。第一期名人戦で名人になって以来、最強を誇り「常勝将軍」と呼ばれ恐れられた。九期、十期名人戦では大山、升田を退けるも、1951年第一期王将戦で陣屋事件が起こる。十一期名人戦で遂に大山に破れ、「よき後継者を得た」との言葉を残し、引退した。※南禅寺の決戦。

2012-10-17 00:04:17
まるぺけ @maruX

[将検]第一期名人戦の途中に、将棋界の分裂騒動(神田事件)が起こった。宗印門の兄弟子の小菅と関根が将棋大成会と名付けた会に、分裂した神田一派も加わって名人決定戦が続行された。

2012-10-17 00:08:53
戎棋夷説 @pascal_api

@maruX 小菅のおかげで分裂が終わったんですね。相川治三吉もお忘れなく。宝珠花小僧、本所小僧、笠寺小僧って言えば誰でしょう?

2012-10-17 00:11:28
まるぺけ @maruX

@pascal_api ぎゃー。全然知りませんでした。宗印門下の三羽カラス!

2012-10-17 00:14:18
まるぺけ @maruX

調べたら(調べました)関根、相川、小菅なのですね…!おお…!RT @pascal_api: @maruX 小菅のおかげで分裂が終わったんですね。相川治三吉もお忘れなく。宝珠花小僧、本所小僧、笠寺小僧って言えば誰でしょう?

2012-10-17 00:15:02
まるぺけ @maruX

小菅さんって棋士引退した後に国会議員にまでなってて凄い。

2012-10-17 00:10:09
戎棋夷説 @pascal_api

@maruX 言ってるとキリ無いですが、高野山、南禅寺、天竜寺は常識として、済寧館、定山渓、も大丈夫ですね。棋士番号一番って誰だっけ?二番は木村か?

2012-10-17 00:18:06
まるぺけ @maruX

@pascal_api やっぱりその辺の◯◯の戦い系は全部フォローしておきます><棋士番号一番は金易二郎でした。旧の将棋連盟の会長も勤めていらっしゃる方なのですが、存命棋士で一番プロ入りが早かった為らしいです…うーむ

2012-10-17 00:22:02
まるぺけ @maruX

[将検]南禅寺の決戦。1937年2月5日から7日間、持ち時間30時間というルールで開催。阪田の復帰記念特別対局。後手となった坂田が2手目に△9四歩と指した。後手でありながらなお1手損とするこの指し手は、関西の棋界を背負っていた阪田の、東京への反骨精神の表れとも見られている。

2012-10-17 01:09:03
戎棋夷説 @pascal_api

@maruX 「2手目に△9四歩」。一手損角換りを初めて見たとき、これをすぐ思い出せたのが、私の自慢のひとつです。いや、私より阪田がすごいんですが。

2012-10-17 01:22:15
まるぺけ @maruX

[将検]天竜寺の決戦。1937年3月に南禅寺の決戦に続けて行われた特別対局。相手は当時名人戦のリーグ上位であった花田長太郎。このときは後手となった阪田が2手目に△1四歩と南禅寺とは反対の端歩を突いている。結果は169手で花田の勝ち。

2012-10-17 01:25:43
まるぺけ @maruX

[将検]定山渓の決戦。1940年、第2期名人戦。木村義雄名人が土居市太郎八段に挑戦を受けての第三局。2回に及ぶ千日手指し直しの末に行われた。

2012-10-17 01:32:57
まるぺけ @maruX

[将検]「済寧館の決戦」1947年、塚田正夫は木村義雄名人を破って名人獲得。翌年大山康晴の挑戦を受けて防衛したが1949年に木村に破れて失冠。この名人戦の最終第五局のこと。名勝負となったが塚田の潔い投了が話題となった。舞台である済寧館は皇居にある道場。

2012-10-17 00:45:15
戎棋夷説 @pascal_api

@maruX 「塚田の潔い投了」「皇居にある」。昭和天皇は侍従に投了後を指させたんです。そしたら、塚田側が勝っちゃった。それを御覧になって、たいへん喜ばれたとのこと。

2012-10-17 01:04:47
まるぺけ @maruX

[将検]高野山の決戦。1948年、第2期順位戦の名人挑戦者決定戦にて、升田-大山の三番勝負が行われることになった。これが高野山の決戦である。升田の歴史に残る大失着で名人への挑戦を逃すこととなった。

2012-10-17 01:01:06
まるぺけ @maruX

[将検]陣屋事件。1952年2月18日、神奈川県鶴巻温泉の陣屋旅館で行われる予定だった、将棋の王将戦第1期第6局で、升田幸三が木村義雄との対局を拒否した事件。

2012-10-17 00:53:12
まるぺけ @maruX

今ひとつ良く分かってなかったんだけど、陣屋事件当時の王将戦は仮に途中で奪取や防衛が決まったとしても、第七局までやるという制度だったんですね。なんという残酷な制度…

2012-10-17 00:54:46
戎棋夷説 @pascal_api

@maruX たしか、当時は名人戦の権威が高すぎて、「新設の王将戦なんて真面目に指してくれないかもしれない」という危惧があったため、過酷な罰ゲームを課して、棋士に本気を出させようとした。さて、木村大山の他に、指しこまれてしまった人は?これも難問ですね。

2012-10-17 01:07:40
まるぺけ @maruX

@pascal_api 調べました><全部で六回差し込み戦が行われていて、木村義雄、松田茂行、大山康晴、高島一岐代、加藤一二三、二上達也でした〜!こんなの分かるわけがw

2012-10-17 01:14:30