- hirasawakatsuei
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創価学会の機関紙「聖教新聞」のコラム「寸鉄」は、「葛飾の友よ、悪魔との戦い、断固戦え、勝て。勝つことが正義だ」と平沢勝栄を悪魔呼ばわりし、組織的な誹謗・中傷をエスカレートさせたが、選挙時には公明党の山口那津男に圧勝し勝利を収めた。
2013-02-05 11:11:312000年6月の総選挙時、これまでの平沢勝栄氏の自自公批判が引き金となり、自民党執行部からなかなか公認が出なかったが、後藤田正晴や亀井静香らが「平沢に公認を出さないのはおかしい」と動いた。その結果、衆議院解散の日、ギリギリ公認された。
2013-02-04 11:01:19平沢勝栄氏の自自公批判が、2000年6月の総選挙時、自民党執行部による「平沢公認せず」の措置につながっていく。東京十七区で公明党のホープ山口那津男と争うことになった。しかし自民党執行部からなかなか公認が出なかったのである。
2013-02-01 11:05:07平沢勝栄氏が公明党・創価学会に不信感を抱く理由③ 創価学会の「批判は一切許さず」という体質は公明党にもあてはまり、一度敵に回すと徹底的に攻撃される。自分に戦いを挑んでくるヤツは絶対に許さないという政党であるため。
2013-01-31 10:56:57平沢勝栄氏が公明党・創価学会に不信感を抱く理由② 著書「警察官僚が見た日本の警察」を書いたとき、学会について述べた文章により圧力をかけられた。その他の部分に関しても「削除しろ」と嫌がらせのファックスや電話が山ほどきたからである。
2013-01-30 10:34:42平沢勝栄氏が公明党・創価学会に不信感を抱く理由① 警察庁にいる時代、何か事件や機密情報があると、それが公明党に漏れる。いろんな分野に公明党関係者が入り込んでいる恐ろしさを身をもって体験したからである。
2013-01-29 10:40:56平沢勝栄氏は自著の中で「自自公連立政権を作ることは私を支持してくれた有権者に対する裏切り行為だ。とりわけ反公明、反創価学会、政教分離を訴えて国会に登場することを許された私のような立場の代議士にとって、今回の自民党執行部の豹変、自公協力の方針は断じて許すことはできない」と語っている
2013-01-28 10:58:27当時ラジオ出演した平沢氏は「自民党がやりたくない地域振興券も、公明党のご機嫌とりのために実現させてしまった。公明党に振り回されている。自民党は政権第一党としての見識を示し国民に信を問うべきなのに、今や制作も誇りもかなぐり捨て公明党に媚びへつらっているという印象を与えている」と批判
2013-01-25 11:19:57平沢勝栄氏は当時、東京十七区で公明党候補と戦い、やっとの思いで議席を確保したにもかかわらず、小渕、野中、森らが公明党と手を組み始めたことに我慢ならなかった。これにより1999年2月には白川勝彦らと一緒に「政教分離を貫く会」を発足させた。
2013-01-24 10:45:281999年、平沢勝栄氏は自民党と公明党が接近することに強い反対姿勢をとった。公明党・創価学会は政教一致路線をとっており、政策面や選挙面で公明党と強力するのは、政党としての自殺行為であり、断じて許せないと主張。
2013-01-23 10:58:221998年に小渕政権が発足した当時、小渕恵三氏は平沢氏について「この方ほど執念をもって仕事に取り組んでいる人はいない。平沢代議士は、本当に五、六回当選した代議士くらいの実行力と人脈をお持ちで、私が総理になるに際してもお世話になった」と語る。
2013-01-22 11:15:34国会における平沢勝栄氏の初陣は、誰からも後ろ指さされることのない初質問であった。その後、新進党はオレンジ共済組合事件を一因とし党内の混乱が深まり、次第に分裂に向かっていった。
2013-01-18 12:12:26自民党の一年生議員の場合、衆院本会議場や衆院予算委員会といった華々しい場に立って演説・質問するということはあまりないが、平沢氏は初登院からわずか三ヶ月で予算委員会での質問役が回ってきた。そのときのテーマは「オレンジ共済組合事件」である。
2013-01-17 10:04:18当時、平沢勝栄氏が地下鉄関係の勉強会に参加したのは、地元・葛飾区に地下鉄がなく、地下鉄誘致が区民の悲願となっていたためである。のちに地下鉄問題をはじめ都市税制など様々な課題に取り組むための「首都圏都市政策議員連盟」を組織している。
2013-01-16 12:26:42当時一年生議員であった平沢勝栄氏は、国会では防衛庁に関係する内閣委員会、警察に関係する地方行政委員会などに所属。党では安全保障、建設、地下鉄、警察、防衛、文教、中小企業などに関係する部会、勉強会にはかならず出席したとのことです。
2013-01-15 11:02:18平沢勝栄氏が初めて政治家になった当時、派閥は竹下派(経世会)に入ったとのこと。「寄らば大樹のかげ」という言葉もあるから竹下派に籍を置いたらどうかという、後藤田氏の助言によるものだという。
2013-01-11 11:02:02平沢勝栄氏の初登院は1996年11月7日のことである。国会の正面玄関から入り、そこで国会職員が金色の議員バッジを左胸につけてくれた際「このときの感激を忘れることはできない」と後に語っている。
2013-01-10 10:54:49当時、無謀な挑戦にもかかわらず大差で破り初当選した新人平沢勝栄氏が東京十七区で受け入れられた理由として、葛飾区議の高橋氏は「一つは葛飾区から国会議員を出そうと言う声。二つ目は行動力が認められた。三つ目は政治的背景、人脈の広さ。四つ目はマメという点」をあげ「救世主現われる」と語る。
2013-01-09 11:29:091996年第41回総選挙、平沢勝栄氏は、創価学会という強固な組織を持っている人物、山口那津男に役一万票の差をつけての勝利だった。平沢勝栄氏(73,726)、山口那津男氏(63,732)。初選挙にして初当選、これが政治家「平沢勝栄」誕生である。
2013-01-08 11:31:39後藤田は「平沢君みたいに大衆の心理をつかむのがうまい男はそんなにいない。彼は演説がうまかった。これは先天的なものだ」と言い、選挙戦術でも「応援に来る芸能人が多く、ともかく交友関係の広いこと。警察官にはなかなかいない。彼は異能なところがある」と語っている。
2013-01-07 11:21:47政治家にとって演説は命である。当時の平沢勝栄氏は演説に工夫を凝らした。警察官の先輩である亀井静香と似ていると言われたことを逆手にとり「あの人とは顔と品格が違います」とユーモアを飛ばし、その場の雰囲気を和らげたうえで本題に入るという手法をとり、これが結構うまくいったのである。
2012-12-27 11:33:261996年5月23日、ホテル・ニューオータニでの資金パーティーにおいては、中曽根康弘、小渕恵三、梶山静六、三塚博、加藤紘一、亀井静香らが顔をそろえた。橋本龍太郎の夫人も最後まで席をはずさなかった。会場は三千六百人の入場者で溢れたという。
2012-12-26 11:29:32当時、平沢勝栄氏は初となる後援会結成大会において2つの戦略を駆使した。1つは、多くの有力政治家に来てもらって新たに後援会員になった出席者に人脈の広さを印象づける。2つ目は、友人の有名人を呼ぶ。その中には、歌手の細川たかし、森進一、布施明、三波春夫といった豪華な芸能人が顔を揃えた。
2012-12-25 16:25:23政治家になる前の平沢勝栄氏が、初めて名刺を持って選挙区内を歩き始めた頃、先輩である亀井静香は「一日五百件を回るつもりでやれ」という助言をしたという。その後1996年4月13日、平沢氏初めて後援会結成大会を開催した際には、1300人の会場に1600人以上が集まった。
2012-12-21 11:37:36当時全国後援会を立ち上げた平沢勝栄氏は、その名誉会長に岡山県警察本部時代に知り合った池田隆政(備前池田藩第十四代当主)に引き受けてもらった。ポスター作り、推薦人として彼の名前を掲載したところ、創価学会名誉会長「池田大作」を連想され、その親戚と勘違いする者もおり笑えない話しがある。
2012-12-20 12:17:28